毎朝、目が覚めてベッドから起き上がり寝室のドアを開ける瞬間、「あぁ、まだ生きていた」と思う。 この感覚は、悲観でも恐怖でもない。むしろ、静かな驚きに近い。自分がこの世界にまだ属しているという事実を、毎朝確認しているような感覚だ。
私は大病を患っているわけでもない。百歳を目前に控えた叔父たちのように、老衰の坂をゆっくり下っているわけでもない。毎朝二時間近く歩き、ゴミ拾いをし、CPAPのおかげで睡眠も深い。身体はよく動き、生活は安定している。
それでもなお、目覚めの瞬間に「生存の確認」をしてしまう自分がいる。
この感覚は、単なる小心ではない。むしろ、ここ十年ほどで私の周囲に起きた出来事が、私の死生観を静かに変えてしまったのだ。
会社員時代の後輩、趣味の仲間、高校時代からの友人 ―― 彼らが次々と六十代で他界した。病気で長く苦しんだ人もいれば、まったく予兆なく突然死した人もいる。つい十日前にも、年下の友人が急に亡くなった。前日まで普通に生活していた人が、翌日にはこの世にいない。その事実が、私の心に深い影を落としている。
人は、必ずしも老衰で静かに幕を閉じるわけではない。事故、突然死、軽い病気の急変 ―― 死はしばしば、私たちの予測を裏切る。「死は突然訪れる」。この事実を、私はようやく実感として理解し始めた。
この理解は、私の人生観を大きく変えた。死が突然訪れるなら、人生の時間は「長さ」ではなく、常に「密度」で捉えていなければならないと考えるようになった。
人間には数十年しか生が与えられていない。最初の二十年は学習に費やされ、六十を過ぎれば退職が迫る。フルパワーで生きられる期間は四十年ほどにすぎない。若い世代には無限に思えるその四十年も、経験した者は皆「思ったほど長くはなかった」と語る。
私自身、三十代初めのころ、会社の家庭寮で暮らしていた時期がある。その寮の隣の棟のちょうどお向かいの部屋に住む、四十歳前後の先輩社員が過労死した。あのときの衝撃は忘れられない。「人は、こんなにも突然いなくなるのか」。 その驚きは、今も私の胸に残っている。
人生の短さを考えるとき、私たちはしばしば「何年生きたか」に囚われる。しかし、宇宙の年齢である138億年という時間の前では、二十年も七十年も、誤差の中に沈む同じ瞬間だ。 私たちの寿命は、宇宙の歴史の中ではほとんど点に等しい。
この視点に立つと、人生の長短を比較すること自体が意味を失う。「七十年生きたから長い」「二十年で亡くなったから短い」 ―― そうした評価は、宇宙的時間の前では無意味だ。私たちに与えられた寿命は、どれほど長く見えても、結局は「瞬間」にすぎない。
だからこそ、その瞬間をどのような「濃さ」で生きるかがすべてになる。
死の突然性を知り、人生の短さを理解し、宇宙的時間の前で自分の存在の小ささを悟る。その三つの認識が重なったとき、ようやく「今日を生きる」という言葉の重さを実感する。
今日も一日生き延びたことに感謝したい。そして、その一瞬を最大限に濃くするために、自己実現の限りを尽くす新たな一日を送りたい。
死を恐れるのではなく、死があるからこそ生を輝かさなければならないのだと、静かに受け止めながら。