戦前の反省を踏まえて制定された日本国憲法は、言論・表現の自由を明確に保障している。
戦後生まれの世代が大半を占めるようになった現在、その自由は「勝ち取ったもの」というより、「生まれたときから当然そこにあるもの」として受け止められている。
他国で言論が厳しく統制されている現実に触れても、それを「遠い国の話」や「過去の歴史の残骸」のように眺めてしまう傾向が強い。
私たちはメディアやSNSを通じて、他国の情報統制や検閲の実態を批判的に論じる。
しかし、その批判的視線は、戦後日本が長い時間をかけて培ってきた「表現の自由」という空気の恩恵に浴している証拠とも言える。
自由があまりにも自明なものとして呼吸されるようになったがゆえに、その脆さ、守り続けるための不断の努力への意識は、世代の交代とともに確実に薄れつつある。
現代の日本には法的な言論統制は存在しない。
しかし、過剰な忖度、ネット上の炎上を恐れる風潮、同調圧力といった「見えない壁」が社会の隅々に張り巡らされている。
国家権力が直接言論を取り締まらなくとも、社会の目を過度に意識するあまり、人々は自らの言葉を縛り、「ソフトな言論統制」とも呼ぶべき状況が静かに進行している。
近年の社会的風潮として、世の中はあらゆる事柄に過敏に反応し、「ハラスメント」の名のもとに騒ぎ立てる。
その結果、人々は余計な摩擦を避けるために口をつぐみ、人との関わりを最小限にとどめ、見て見ぬふりをすることが当たり前になりつつある。
多くの人が、リスクを避け、責任を回避し、他者に対しては機械的な対応に徹して生きようとしている姿が目立つ。
そうした風潮の中で、私自身もまた、知らぬ間にその空気に染まりつつあるのかもしれない。
ネット上の炎上や、特定の思想を持つ人々の激しい反発、さらには、疎ましく感じている海外の国家の過剰な反応の可能性を考え、私は自分の発言に細心の注意を払うようになった。
胸を張って、堂々と言いたいことがないわけではない。しかし、災いを惹き起こしたくないという「社会に対する忖度」から、断定的な言葉や刺激的な表現を避け、できるだけ穏やかな言い回しにとどめるよう、自分の気持ちを抑え込んでいる。
特に政治問題が絡む話題は、様々な立場と信念を持った人々が、一歩も譲らず自分の正しさを戦わせる世界である。そこでは、わずかな表現の差異が、激しい感情の衝突を引き起こす。
無名な一個人のエッセイであっても、ひとたび火がつけば、炎上の渦に巻き込まれる可能性はゼロではない。老人であるがゆえに、人生のこの期に及んで面倒な事態に巻き込まれたくないと考える自分が、確かにここにいる。
世の中には、人の数だけ異なる価値観と考え方が存在する。
異なる意見をぶつけ合うことは決して無駄ではなく、互いに見逃していた視点や気づかなかった観点を指摘し合うことで、より高い次元で物事を考えられるようになることは少なくない。
しかし、議論ほど難しいものもない。
冷静に相手の意見を理解し、その上で自らの考えを提示し、建設的な話し合いの場とするには、知的な成熟と感情の制御が求められる。
お互いに自分の主張をぶつけ合うだけなら、最後には激情が支配し、双方が感情的になった人々を巻き込み、「炎上」へと雪崩を打つ。
一度炎上したものは、簡単には鎮火しない。その過程で、多くの人が「もう二度と関わりたくない」と感じ、次の議論の場から静かに退場していく。
こうして、人々は批判を恐れ、議論を避け、自己検閲を強めていく。
その結果、本来は自由であるべき民主主義は、国家の介入がなくとも、「言論の自由」の前に少しずつ障壁を積み重ねていく。
発言の前には、常に何らかの壁が立ちはだかる。それが、国家による取り締まりであるのか、特定の思想を持つ人々の激しい反発であるのか、大衆による炎上であるのか ―― 形を変えながら、壁は常にそこにある。
メディアの発達により、発信された情報が世界を駆け巡るのに時間はほとんどかからない。昔なら、いくらでも潜んでいられた情報が、今は容易に白日の下にさらされる。
一度外に出た言葉は、もはや完全には回収できない。
そこに、現代の情報伝達の舞台の怖さがある。
法的には自由であっても、社会的・心理的な圧力が、個々人の口を閉ざし、思考を内側に押し込めていく。
言論の自由が保障されている時代だからこそ、その自由がいかに脆く、いかに容易に萎縮しうるかという「リスク」を、私たちは改めて見つめ直さなければならない。
そのうえでなお、言葉を紡ぐことをやめないこと ―― それが、自由の時代に生きる者に与えられた、厄介な課題なのだろう。