相手と闘うスポーツ、自分と闘うスポーツ

スポーツの試合を観ていて、ふと心が引いてしまう瞬間がある。 鮮やかなプレーに一瞬は目を奪われながらも、その熱狂の先にある「影」を前に、どうしても没入しきれない自分がいるのだ。


私が胸を打たれるのは、決して「勝ち負け」が決まる劇的な瞬間ではない。 ただ一人、あるいは一組の人間が、己の限界に挑み、そこに到達したときの静かな姿にこそ、神々しさを感じる。

 

スポーツには、二つの顔がある。

敵味方に分かれて勝敗を競う「相手との闘い」。

そして、黙々と自分の技を磨き、その出来栄えを証明する「自分との闘い」だ。

 

前者の対人競技には、常に危うさがつきまとう。

特にサッカーの国際試合では、観衆が興奮のあまり暴徒化し、直近の3件だけでも、100名以上が命を落とし、600名以上が負傷している。  いずれも「敵と味方」が極端に分断される対人団体競技の危うさを象徴している。 闘争本能の痕跡が、そこかしこに顔をのぞかせている。

 

敵、倒す、戦略、不意打ち、そして勝利の雄叫び ── 。

テレビの画面から溢れ出るそれらの言葉の背景にある、人間の野生的な攻撃性を思うとき、私はどうしても一歩、後ろへ退いてしまう。

対戦相手を人間として敬う「フェア・プレー」の精神は、それほどまでに脆く、常に脅かされている。


一方で、記録や美を競う世界は、徹底して自分との闘いだ。

 

最近、フィギュアスケートの「りくりゅう」ペアが見せた演技が、今も頭から離れない。

幾度もの挫折と怪我を乗り越え、互いを信頼しきって滑る二人の物語を知るにつれ、あの氷上の姿に胸が締め付けられる。

あの4分間には、明らかに「勝ち負け」というスコアを超えた何かが宿っていた。

 

他者を排斥するためではなく、自分たちの理想の芸術を体現するためだけに削り出された肉体と精神。 そこには他者への攻撃性は微塵もない。

 

敵と戦うのは、生き物として普遍的な行動だ。しかし、昨日の自分を凝視し、「自分と闘う」のは人間だけが持つ特権ではないだろうか。


もちろん、サッカーや野球のような対人競技であっても、選手たちはピッチに立つその瞬間まで、孤独に自分と闘い続けている。

 

だからこそ、それを見守る観衆には、選手以上の「品格」が求められるはずだ。

特に地域や国の看板を背負う国際試合では、熱狂は容易にナショナリズムへと変貌する。

今も昔も、歪んだ帰属意識は戦争の引き金になってきた。その暗い影を、神聖であるべきスポーツの場に落とすことだけは、絶対に犯してはならない過ちだ。

 

スポーツが単なる野生の闘争へと退化するか、あるいは人間の尊厳を映す鏡であり続けるか。

それを決めるのは、スタジアムの席で、あるいは画面の前でそれを見つめる、私たち一人ひとりの眼差しにかかっている。

 

コメントする