クラシック音楽の多くの交響曲では、第四楽章が長い旅路の締めくくりを担う。
そこには、作曲家がその曲に託した思いが凝縮され、音楽はそれぞれ異なる方法で終わり方を選ぶ。
その多様な終結の姿が、人生の最終章と重なって見えることがある。
人生もまた、どのように終わるかは人それぞれだ。
その姿を思うとき、私はいつも交響曲の第四楽章を思い出す。
心に残る四つの終わり方
- 勝利の終結 ―― ベートーヴェン《運命》
第五交響曲の終結は、まさに「勝利」のかたちだ。
扉を打ち破るような和音が、何度も何度も押し寄せる。
もう十分だ、と聴き手が思うほどの確信が繰り返され、最後は眩しいほどの肯定のうちに鳴り終わる。
これは、人生を力強く駆け抜け、孤独や代償を抱えながらも、最後まで闘い抜いた者の終わり方に似ている。
- 傷を抱えた肯定 ―― ベートーヴェン《第九》
同じ華やかな終わりでも、第九交響曲は少し趣が違う。
歓喜の大合唱が高みに達したあと、ふっと力を抜くように優しい和音が訪れる。
その静けさに一度身をゆだねてから、再び音楽は全身で叫ぶ。
ここにあるのは、ただの勝利ではない。
痛みを抱えたまま、それでも前を向こうとする者の肯定だ。
その間に宿る温度が、人生の複雑さとよく響き合う。
- 未完の静寂 ―― シューベルト《未完成》
《未完成》の終わり方は、静寂へと還っていく。
途中までの展開は大きく、深く、時に激しい。
それにもかかわらず、最後の音は細い糸のように遠ざかり、気づけば静寂だけが残っている。
そこには「ここで筆を置くしかなかった」ような、人間の限界の影が差す。
望んだ終わり方ではなくとも、そこには静かな必然がある。
- 余韻を残す終結 ―― ドヴォルザーク《新世界より》
《新世界より》の終結は、力強く鳴り切る。
しかし、その瞬間にすべてを断ち切るのではなく、弦の響きが一本の糸となって長く空中に残り続ける。
終わったはずなのに、どこか遠くでまだ鳴っているような余韻。
それは、声を荒げずとも、静かに誠実に生きた者だけが残せる響きだ。
人生が終わったあともなお、誰かの心にそっと響き続ける生き方だ。
戸惑いの終結
誰もが知る名曲であれば、終わりのタイミングに迷うことはない。
しかし、初めて耳にする曲で、しかも静かに消え入るような終結の場合、聴衆は一瞬戸惑う。
「今ので終わったのか?」と、ホール全体が息を呑む。
誰も手を叩かないまま、数秒の沈黙が流れる。
やがて、どこかの席で、勇気のある誰かが小さく一度だけ手を打つ。
その「パチ」という音が合図になり、何人かが続き、拍手が波のように広がっていく。
人生の終わりもまた、当人だけでなく、周囲の者がその静けさを受け入れるまでに、わずかな間が必要なのかもしれない。
戸惑いながら生き、絶え入る様に静かに終わる人生もあるだろう。
人それぞれの第四楽章
さまざまな最終楽章を聴いていると、それぞれが一人の人生の姿に重なってくる。
力強く鳴り切って終わる人生もあれば、静かに音を細らせていく人生もある。
途中で筆を置かざるを得なかったような終わり方もあれば、終わったあともなお、誰かの心の中で長く響き続ける終わり方もある。
そして、どの終わり方にも、それぞれの拍手がある。
嵐のような喝采もあれば、ためらいがちな小さな拍手だけが静かに続くこともあるだろう。
その拍手は、世間から贈られるものではない。
胸の奥でそっと鳴る、自分自身への静かな肯定の音だ。
自分の第四楽章を見つめる
エッセイを書くようになってから、私は自分の歩いてきた道を以前よりも頻繁に振り返るようになった。
それまでは前だけを見て走り続け、足跡をみつめることは弱さのように思っていた。
今になってようやく、立ち止まり、自分の物語を少し離れた場所から眺められるようになった。
それは、自分の人生がどのような第四楽章を迎えつつあるのか、その輪郭をそっと指先でなぞる行為に似ている。
まだ曲は鳴り終わってはいない。
タクトは自分の手にある。
ときおり耳を澄ませば、遠くでかすかに、最後の響きの気配が聴こえる気がする。
その静かな響きに気づけるようになったことを、私は今、よい生き方をしてきた証として嬉しく思う。
人生の第四楽章がどのような終わり方を選ぶにせよ、その一音一音が私の物語だ。
最後まで丁寧に奏で続けていきたい。
やがて訪れる静寂のあと、あの世で自分が頷きながら小さく「パチ」と拍手できるように。