家族を支えた足跡 ―― マリオンとリカルドが遺したもの

外を歩いていて散歩中の犬に出会うと、今でも毎回心がときめく。

すれ違いざまにリードが引かれ、こちらに鼻をクンクンさせて寄ってこようとする姿を見ると、愛おしくて仕方がなくなる。

一度触れ合わせてくれた犬は、次からは遠くからでも私を見つけて耳を立て、しきりに尻尾を振って近づいてくる。 たまらない瞬間だ。

 

街角で彼らの純粋な瞳に触れるたび、私の記憶は、かつて我が家の歴史を文字通り支えてくれた二匹の犬 ―― マリオンとリカルドの足跡へと鮮やかに行き着く。

 

 

二人の大切な人の名を授けて

私は生涯で二度、犬を飼った。

彼らには、私が人生で出逢った大切な人の名をつけた。

 

一匹目は雑種の柴犬「マリオン」。 若い頃にアメリカで大層お世話になった、天真爛漫なおじいさんの名前を借りた。

二匹目は黒いトイプードル「リカルド」。 スペイン留学時代に深い友情を築いた、親友の名前をつけた。

 

二人とも私の記憶に深く刻まれた愛すべき存在であり、その響きの美しさも手伝って、最愛のペットにその名を重ねることは、私なりの最大の愛情表現だった。

 

しかし、これは多分に独りよがりな考え方だったかもしれない。

三十二年ぶりにスペインを訪れて親友リカルドと再会したとき、私は喜んでくれるだろうと思って「愛犬に君の名前をつけたんだ」と話した。

ところが彼は、「犬なんかに自分の名前をつけられたのか・・・」と、表情を暗くしたのである。

 

文化や価値観、あるいは人間としてのプライドからすれば、彼の反応は当然のことだった。

かつてアメリカのマリオンさんに対しても、当時の飼い犬の名前を無邪気に手紙で伝えてしまったが、それも同様に失礼なことだったのだろうと、後になって深く省みた。

 

人間側の都合や感傷を、他者や動物に無条件に投影してはならない。 そんな苦い教訓を、彼らの名前は今も私に思い出させる。

 

 

家族の風景を変えたマリオン

最初に出会ったマリオンは、我が家の「風景」を劇的に変えてくれた。

 

妻は幼少期に犬に追いかけられたトラウマから、極端に犬を怖がった。 街で犬に出会うと足をすくませ、子どもたちに向かって「駄目よ、じっとして!」と怯えるため、子どもたちまで犬を怖がるようになってしまっていた。

 

その膠着状態を破ったのが、子どもたちが八〜九歳の頃にやってきた生まれたてのマリオンだった。 妻はその無垢な愛らしさにまたたく間に心を開き、どこへ連れて行っても「可愛い」と声をかけられるマリオンは、すぐに我が家にとって不可欠な一員となった。

 

子どもたちも、新しくやってきた「弟」を大層可愛がり、どこへ行くにも連れて遊び回った。 彼らはそうして互いに影響を与え合いながら成長し、共に多感な学生時代を駆け抜けていった。

 

家族全員の愛情を一身に浴び、マリオンは十三歳まで生きた。

最後の日、彼は私の手のひらにそっと頭を載せたまま、静かに息を引き取った。 初めて味わう本物の喪失感の前に、私たちはただ茫然と立ち尽くし、涙と感謝のなかで言葉を失った。

 

 

人生の転換期を支えてくれたリカルド

マリオンが旅立って五年後、我が家にやってきたのがリカルドである。 彼は、私の人生の最も不安定な転換期に、その小さな身体で家庭の均衡を支えてくれた。

 

当時の私は再就職先を模索している最中で、家の中にはどうしても殺伐とした空気が漂いがちだった。 やがて私は単身フィジーへと渡り、現地で仕事をすることになる。

残された妻は、日々の生活や仕事に追われながらも、ひとりで寄り添うようにしてリカルドを必死に可愛がり、私が不在の寂しさと辛い孤独を乗り越えてくれた。

 

私が帰国して個人事業を立ち上げたとき、リカルドは八歳になっていた。

そこからは一転して、私と彼が多くの時間を共に過ごす番となった。

彼が食事中の私の足元で眠るように旅立った十六歳の年、私の事業は大きな節目となる成功を迎えた。 まるで、我が家の激動期をすべて見届け、安心したかのような最期だった。

 

この二匹の存在なしに、我が家の歴史を語ることは絶対にできない。

 

 

打算のない、ひたむきな愛

多くの人がペットに心を奪われるのは、彼らが注いでくれる愛に、いっさいの打算がないからだろう。

 

私は、犬が人の気持ちを裏切らないところが好きだ。 こちらが愛を注げば、彼らは必ずそれ以上の愛を返してくれる。 その純粋さは、人間関係のなかで時に生じる気まぐれや不義理とは無縁の、絶対的な安心感をもたらしてくれる。

 

だからこそ、愛情を注がれることのない環境に置かれた犬たちの姿を見ると、胸が締め付けられる。

以前、旅先のミャンマーで目にした野良犬たちは、まるで「みなしご」のように愁いを帯びた瞳で、言葉を持たぬまま何かを静かに訴えかけているように見えた。

 

(筆者撮影:ミャンマーにて)

 

その哀愁に満ちた瞳の記憶は、ひるがえって、日本でマリオンやリカルドと家族として過ごせた時間が、どれほど幸福なことであったかを私に突きつける。 彼らが最期まで満ち足りた瞳でいてくれたことは、飼い主としての私たちの、何よりの救いだった。

 

 

思い出の袋にしまって

多くの場合、人間はペットの一生を最初から最後まで見届けることができる。

自分の子どもに対しては決して望まない ―― むしろ親としては不幸であるはずの「看取り」が、ペットとの関係においては、何ものにも代えがたい責任の全うであり、幸せの形となる。

動物たちの短い寿命は、出会いから看取りまでのすべてを抱きしめ、一つの完璧な物語として記憶に残すことを許してくれる。

 

もう一度、あのように愛らしい家族を迎えたいと、ふと思うこともある。

しかし、犬を飼うということは、毎日の散歩や体力を伴う世話のすべてを、最期まで引き受けるということだ。 今の私たちの年齢を鑑みれば、もし万が一にでも、彼らの命を最後まで看取れなくなるようなことがあれば、それこそ動物に対してあまりにも残酷な裏切りとなる。

 

だからこそ、新しい家族を迎えることは、もう潔く諦めなければならない。

 

そう割り切ったとき、思い出の袋のなかにいる二匹の姿が、いっそう色鮮やかに輝き出す。

マリオンとリカルド。 我が家を支えてくれた誇り高き二匹の足跡は、今も宝物のように、私の瞼の裏に焼き付いて離れない。

 

 

 

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