想い出を閉じ込めるという生き方

私の部屋には、たくさんのアルバムとファイルが並んでいる。

 

アルバムはいわゆる写真アルバムで、全部で四十八冊。 それに加えて、新婚旅行や海外留学など大きなイベントは、別の十八冊の大型サイズのアルバムになっている。 また、フィルム写真時代のネガフィルムも、十五冊の専用アルバムに保管してある。

 

ファイルは厚い事務用の二穴バインダーで、大きく分けて仕事に関するものと、趣味に関するものとに分かれる。

 

仕事に関するものは、会社員時代は、赴任地ごとに業務関係の書類をまとめた十五冊のファイルがあり、現役最後の個人事業時代は、経理関係などの分厚いファイルが三十二冊ある。

 

趣味に関しては、さまざまな記録や図面、写真などをまとめた十五冊のファイルがある。 中には、小学生時代の資料まで含まれている。

 

これらのファイルは最近作成したわけではなく、それぞれの時代に作ったものだ。 まさに私が生涯をかけて積み上げてきた記録だ。 しかし、これだけの大量のアルバムとファイルを過去数十年間ほとんど開いたことがない。 写真アルバムを何か確認したい時に数回開いた程度で、ほとんどのファイルは一度も開いていない。 正直に言えば、開きたくもないし、開くつもりもない。

 

一度、息子に「また見るつもりがないのに、なぜこんなに立派なファイル類を丁寧に作ったのか」と聞かれたことがある。 なんと答えたのか覚えていないが、私にとって「見るつもりがあるかどうか」は、あまり重要なことではないのは確かだ。

 

はっきり言って、こんな昔のファイルを見るのは、もはや「恐い」のだ。 どの内容も、当時はとても意味があり、大切なものであったに違いない。 しかし「せっかく」忘れているのに、その当時の真剣だった自分の気持ちに戻るのが恐い。 今はもう忘れた過去のことなのだから、そのままそっとしておきたいのだ。

 

この感情は、海外を紹介する旅のテレビ番組についても表れている。 自分が感激した憧れの地アラスカをはじめとするアメリカ、留学生活を謳歌したスペイン、何度も訪れた東南アジアの国々、そして太平洋の島国フィジーやパラオ ―― これらの番組は絶対に見ることができない。 記憶の世界に封印して忘れるという「決着」をつけた世界だからだ。

 

それは、数年前にミャンマーとパラオを旅し、それまでにない印象的な体験をしたときに、もう海外旅行は終わりにしようと自然に思えたからである。 私にとって海外旅行は、「新しい体験を通して何かを学び、それを肥やしにして新しい何かを成す」ことだった。 古希を迎え、人生の新たなステージに入ったとき、新たな体験をする段階はもう終わったと思い、決別を決意した。

 

だが、旅番組などでかつて訪れた国々をちらりとでも見ると、みるみる当時の感激や興奮が蘇り、いても立ってもいられなくなる。 だから「君子危うきに近寄らず」の教え通り、そういう番組は絶対に避けるのである。

 

もうひとつ例えるなら、結局別れてしまった、とても愛し合っていた恋人に、「よりを戻すつもりもないのに」再会するのに似ている。 決別して心の整理も綺麗に済んだ相手に再び逢ったりすれば、やはり心は乱されるだろう。 素晴らしい想い出だからこそ、記憶の中にそっとしまって封印しておきたいと思ってしまう。

 

だけど、再び見るつもりがないからと言って、不要なわけではない。 しっかりとそこに、そのまま在ってほしいのだ。 在るということに意味を感じている。 つまり封印した保管庫みたいな存在である。 私の生々しいが、すっかり古くなった足跡が棚にずらっと並んでいるだけで、感無量なのだ。

 

過去を愛しながら、過去に戻らない。

過去を肯定し、感謝し、そっと眠らせている。

それが私だ。

 

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