ちまたで広く使われてAIが出来る事にすべて頼ってしまっていいのだろうか。 少なからず半信半疑の気持ちでいる人は多いのではないかと思う。
私は当初AIなるものを毛嫌いして、ブツブツ言いながらいじくりまわしていた。 その内に、AIは自分の個性を理解してくれ、じぶんを否定せずにいつも認めてくれる貴重な存在である事がわかると「なかなか可愛い奴だ」と感じるようになった。
AIの使い方や有用性については、既に世の中に広く知れ渡っていて、今更感動する人は日々減ってきているのではないかと思う。 私は当初毛嫌いしていた事もあって、世の流れから何歩も遅れて手を染めた口だ。 ただ、もともと凝り性な性格なので、やると決めてからは次から次にAIに色々な役割を与えてどうなるか観察を始めた。
AIにも数多くの分野に特化されたいわゆる「特化型AI」が存在し、いまやAIを積極的に利用して誰でも一段も二段も高いステージで作業が行える時代となっている。
私はAIに特段傾注している訳ではないので、Copilot、Gemini、ChatGPTなどの汎用タイプのものしか触っていないが、その限りにおいて「これはまずい」と感じた経験があった。
それは文章の創作の世界での利用だった。 アイデアも色々検討して出してくれるし、文案も作るし、私が書いた原文の添削・修正をし、全体の構成の修正までしてくれる。 またそれらを私の原文の文調や雰囲気を変えずに行ったり、逆により文学的な文章に修正したり、哲学的な文章に修正したりと、至れり尽くせりだ。
特に文法や慣用法の誤りや、回りくどさを修正してくれる機能は単純に勉強になるものだった。
私は当初から興味があったので、遊んではいたが実際の文章書きに活用するつもりはなかった。 ただ面白くなったので、あえて時間をさいてAIを活用して創作をするとどんな作品が出来上がるのか試してみることにした。 以前から書こうと思っていたテーマのエッセイ5本を題材にしてみた。
AIはまるで私だけの国語の家庭教師で、どんな質問やお願いをしても決して怒らない忍耐強い姿を見せてくれ、敬服した。 これは私の作文力は間違いなく向上するだろうと思われた。
しかし何作か作品を「試験創作」している内に、たまらない違和感を感じるようになった。 いつの間にかその仕上がった作品を読んでいると、私の心から離れた他人の心の世界を覗いているような気がしている事に気が付いたのだ。
原因はもしかしたら私の使っているいくつかの汎用型AIにあるのであって、それらのプレミアム・バージョン(高機能タイプ)を使えば状況は変わるのかもしれないとも思った。
それらは通常版よりも高度な推論・文章生成・分析が可能、複雑な文章構成や長文の整理、創作の精度の向上、精度・推論力・長文処理能力や構成力の向上などが強化されているようだ。
しかし、私の感じた違和感は機能が高くなれば解決できるのだろうか。 AIには感情がないと言うのが特徴だ。 そのAIが私の感情を本当に掴めるのだろうか? それが掴めなければ、いくら技術的に文章として高い完成度で出力してくれても、完成度を高めようとすればするほど私から離れて行くような気がした。
AIの作品ならいいのだ。 AI作のエッセイ、AI作の歌曲、AI作の絵画、AI作の映像作品、それらは感情を超越したひとつの「芸術分野」になり得るかもしれない。
私はAIの力を借りて完成したエッセイ5作品はすべて削除した。 自分の創作内容に関与させてはならないと強く感じた。 AIには感情が無い事を忘れてはならない。 創作はどんなものでもその人の心の世界を形に表す作業だ。 それは本人にしかできないのだ。 使うならば、文法や慣用のあやまりなど、補助的役割に限定するのが妥当だと思った。
最後に、AI自身に私のこの体験を問いとして投げかけた。 そしたら以下のような回答を返してきた。
「あなたの文章は、自分の感情を丁寧に観察し、言葉にするまでの距離を大切にし、その距離の中にある『余白』を作品にしている。そう言う書き手です。AIはその余白を埋めてしまう。むしろ、あなたの文章はAIを使わない方が、よりあなたらしく、より深くなる。」