「セクハラ」という言葉が世に登場して久しい。もう三十年以上も前の話だ。大きな声では言えないが、個人的には「何を大袈裟に・・・」といぶかっていた。
女性から訴えられるようなことはしていないという自信があっても、それでも女性の気分次第でハラスメントだと騒がれるのであれば、世の中善悪の境、すなわちレッドラインをどこに引くのかという話だ。
昔は問題視されなかったが、今ではレッドラインを越えるとされる例は五万とある。
私が銀行に就職した昭和五十一年当時、営業店(支店)は今とは異なり、六十人近い多数の行員を抱え活気に満ちていた。当時の職場は、女性行員も多く和気あいあいと明るさに満ちていた。
今の人が聞いたら驚くだろうが、男性は冗談を言いながら女性のお尻をさりげなく軽くタッチ、なんていうのはコミュニケーションの円滑剤と言われていた。
タッチされた女性も笑って受け流すことも珍しくなかった。当時は本人も周囲も、それを問題として認識していなかったのである。
それが今では問題行為とみなされる。
昔は円滑「剤」でも今では円滑「罪」だ。時と場合によってはクビが飛ぶことさえある。
セクハラという言葉が社会の中に浸透し、確固たる「市民権」を得るようになると、もう下手な抵抗は無用だ。
昔を思い出し、「あれが今だったら」と胸を撫でおろすことがいくつあったことか。
それから十年ほどして、今度はパワハラという言葉が聞かれるようになった。
私が最初に着任した支店へ、やがて千葉県内の別の支店から新しい支店長が赴任してくることになった。
男性行員は常に転勤を繰り返しているので、その人づてに前評判が伝わってくるのは早い。
聞いてぞっとした。鬼のような猛烈支店長だというのである。
案の定、渉外行員は毎晩遅くまで残されて延々と会議が続き、意味もなく支店長から罵倒され人格を否定された。まさにパワハラの極致だった。
しかし当時は、それが大きな問題として扱われる時代ではなかった。
つまり私は、セクハラもパワハラも当たり前のように存在する世界にいたが、時代はそれを騒ぎ立てるほどの問題とはみなしていなかったのである。
セクハラとパワハラの登場は、会社の中の人間関係を大きく変えることになった。
今では女性社員を飲みに誘うこと自体を禁止している会社もある。発言が思わぬ誤解を招くことを避けようとして、事務的な会話以外は極力避ける人もいる。
上司は指導の仕方に神経を使うようになり、必要な助言まで控えてしまう場面もあるように思える。
それに拍車をかけたのが、雨後の竹の子のようにポコポコ誕生してくる、新型ハラスメントのオンパレードだ。
ざっと思い起こしただけでも
モラハラ(精神的苦痛)
カスハラ(客の苦情)
マタハラ(妊娠・出産)
パタハラ(男性育休)
ケアハラ(介護)
ロジハラ(理詰めで追い込む)
フキハラ(不機嫌)
スメハラ(匂い・香り)
アルハラ(飲酒)
テクハラ(IT知識)
リモハラ(テレワーク)
まだまだ枚挙にいとまがなく、年々その数は増え続けている。
まさにハラスメントの洪水である。
今の時代に育った若い人たちにとっては当たり前の世界であり、大きな違和感を覚えることもないだろう。
しかし、私には行き過ぎた世界に見えてしまう。
得るものも多いだろうが、失うものもまた少なくないように思う。
世代を超えた雑談や気軽な助言、上司からの率直な指導、異性間の自然な交流から得られるものは大きいはずだ。
会社はお金を稼ぐだけの場になってしまうのだろうか。思い出に残る職場での人間同士の交流がどれだけ私という人間の成長に力になってくれたかを思い出すと、その思いは強い。
すべての人が周囲を気にしながら、言いたいことや言うべきことから遠ざかり、問題を起こさないことを優先して生きるようになってはいないだろうか。
人間社会とはそんなものでよかったのだろうかと考えてしまう。
歴史を振り返ると、いま目の前にある人間関係は、人と人との自然な関わりよりもルールやリスク回避が優先する、一種の冷たさを帯び始めているような気がしてならない。
人を傷つけまいとして生まれたはずのルールが増え続けた結果、今度は誰もが「これはハラスメントにならないだろうか」と周囲をうかがいながら生きるようになった。
もちろん、セクハラやパワハラが当たり前だった時代に戻りたいわけではない。しかし、人間同士の自然な関わりまで萎縮してしまう社会が、本当に望ましい姿なのかという疑問は残る。
私には、このハラスメントの洪水が作り出す絶え間ない緊張感そのものが、最も厄介な「ハラハラ」と呼びたくなるハラスメントの完成形に思えてくる。