手が届くところに潜む、我がルーツ

昭和の時代は、旅行は特別な贅沢であった。

新婚旅行も国内が普通で、東京に住んでいても、目と鼻の先の熱海が良く選ばれた。

ごく一部の恵まれた人がハワイを選んだと聞けば、周囲は大騒ぎになったものだ。

 

時代は変わり、海外はぐっと近くなった。

旅は特別な儀式ではなくなり、誰もが気軽に地球上を移動するようになった。

 

私自身も、人生の多くを旅に費やしてきた。

仕事のおかげで国内外を問わず数えきれない景色を見てきた。六十代の終わりには、かつて暮したスペインを再訪し、ミャンマーで冒険旅行をし、パラオでこの世の楽園を体感した。

そこまで体験したとき、湧きあがるように「もう海外はこれでいい」という気持ちが心を満たすようになった。

 

もちろん、人間の欲は限りがない。

単にそこで区切りをつけようとしただけなのかもしれない。

しかし、私の内側ではもっと別の変化が起きていた。


外への旅から、内への旅へ

 

豪華なホテルの特設バイキング会場に、ひとりの健啖家がいつものように現れたとする。目の前には数え切れない高級料理が並び、手当たり次第に皿に載せて食事を楽しむ。

かなり食べた。会場にはまだまだ手を付けていない料理がいくらでも残っている。食べたことのないエスニック料理もたくさんある。しかし、なぜかいくら食べても心が満たされない。

 

「もうご馳走はいい」と、会場を後にしたその人は、ふらりと自分の地元の裏町へ向かい、小料理屋や小さな立ち食いの店を転々と歩き始める。

派手さはないが、静かな憩いと心に残る味がそこにはあった。

自分のすぐ近くに、こんなにも豊かで自分の心を満たす世界があったことに気づく。

 

私が海外に区切りをつけた感覚は、この比喩に近い。 長い年月をかけて外へ向かっていた旅は、いつの間にか内へ向かう旅へと姿を変えていたのだ。


故郷という旅の終着点

 

人はどれほど遠くへ行っても、最後には自分の生まれ育った土地に心が戻ってくる。 長年海外で暮らした人であっても、それは変わらない。 鳥に帰巣本能があるように、魂は自分が生まれた場所の気配に惹かれる。

 

田舎の若者が都会に出て、華やかな女性に心を奪われる。 しかし、実は自分のすぐ近くにこそ、一番大切にすべき女性がいた ―― そんな歌に描かれた物語は、人間の普遍的な感情を象徴している。

 

故郷の周りを、小さな車や電車、あるいは歩いてゆっくり巡る旅は、自分のルーツを探る旅だ。

外の世界を知るために始めた旅が、いつの間にか自分を知る旅へと変わっていく。

これは、年齢を重ねた者にしか分からない、静かで深い感情の移り変わりだ。


人生という旅の正体

 

人生という旅を振り返ると、歩いて来た道が一本になってずっと地平線の彼方まで延びているように見える。

その先は靄の中に消え、出発点は遠くにあると思い込んでしまう。

 

しかし、もしその出発点が、歩いている自分の目の前にふいに姿を現したとしたらどうだろう。

それは夢の中の出来事のようだが、まったくあり得ない話ではない。

 

長い旅を続けてきた者は、ある瞬間に気づく。

自分が忘れていた「始まり」は、遠くではなく、ずっと手の届くところにあったのだと。

 

外へ向かう旅の果てに、内なる故郷が静かに姿を現す。

そんな体験こそが、人生という旅のもっとも深い報酬なのかもしれない。

 

 

 

コメントする