クラシック演奏会の矛盾 ―― 制度が選ぶ音楽と心が求める音楽

プログラムの違和感

 

私は、東京に拠点を置くあるオーケストラの定期演奏会に頻繁に足を運んでいる。自宅から通いやすい場所にある、私の好きなコンサートホールで演奏が聴けることはありがたい。

特別に長い歴史を持つ楽団ではないが、演奏の質は高く、私はいつも感動し、称賛し、満足して帰途につく。

 

しかし、時折どうしても拭えない不満を抱くことがある。それは演奏そのものではなくプログラムに選ばれた曲目である。

 

私は子どものころからヴァイオリンに親しみ、家にあったクラシックのレコードを繰り返し聴いて育った。今でも当時耳にしたメロディに遭遇すると、胸の奥が締め付けられるように共鳴する。私はその感動を求めてコンサートに行くのだが、定期演奏会のプログラムには、メロディも和声も持たず、感情の共鳴を拒む構造を持つ作品が組み込まれることが少なくない。

 

ある演奏会では、前半も後半もその種の作品で占められ、期待していた感動は一度も訪れなかった。

それらの曲は、口ずさみたくなるようなメロディや、心に染みわたる和声もなく、打楽器の過剰な打撃音の連続や、同じような音程の羅列の限りなき繰り返しが延々と続く。いわゆる「現代音楽」である。


クラシック演奏会に現代音楽を登場させる、制度上の必然

 

私は疑問を抱いた。

なぜ、最新鋭の現代音楽が、クラシック音楽の演奏会に混在し、時に主役のように扱われるのか。

 

調べてみると、学術的分類では「現代音楽」も広義のクラシック音楽に含まれる。

クラシック音楽とは「西洋芸術音楽の伝統に属し、楽譜を中心に継承される音楽」であり、現代音楽もこの枠内あるからだ。

 

しかし、現代音楽は19世紀の美学 ―― 調性(長調・短調)と和声に支えられた歌のようなメロディ ―― を意図的に破壊することで誕生した。

芸術の最先端は常に既存の常識の否定から始まる。

次の展開を予測させない構造と、音楽の持つ意味その物を破壊する試みでもあり、聴衆に対し「音楽を音楽として聴くための前提」を失わせたものと言える。

 

その結果生まれたのが、次の展開を予測させない構造を持つ現代音楽であった。

 

さらに調べて驚いたのは、現代音楽がコンサートに登場する理由が、単なる「多様性」ではなく、「制度的な必然性」に支えられていることだった。

 

助成金の条件に「新作初演」が含まれる。

芸術監督は「伝統と革新の両立」を評価される。

国際的な音楽界では、新作を演奏しないオーケストラの評価が下がる。

作曲家協会や音楽祭との契約で、一定数の現代作品を演奏する義務がある。

 

つまり、オーケストラは「新しいクラシック音楽」を演奏する使命を制度的に負っているのだ。

オーケストラは「制度の要請」と「聴衆の期待」という二重の責務を負い、

その緊張がプログラムの違和感として表面化しているのだ。

 

一方で、現代音楽に対して「難解」「不快」「理解できない」と感じる人は世界中に多い。

私だけではないと知って、正直ほっとした。

 

予測できない音楽は脳に負荷を与え、不快に感じる人が一定数いる。

また現代音楽は歴史が浅く、「懐かしさ」という共鳴を呼ばないため、音楽空間の中で孤立した存在になりやすいのだ。


人生の宝物という、クラシック音楽の本質

 

私はクラシック音楽を特別な存在だと感じている。 その理由のひとつは、歌謡曲のような一時の流行ではないことだ。

 

歳を重ねても、聴くたびに心の中で歌って感動する曲は、学生時代の成長期に親しんでいた曲だ。 クラシックは寿命が長く、基本的には永遠に愛され演奏され続ける。 若い頃に慣れ親しんだ感動は、生涯の宝物である。

 

私は一時期、「古典的な曲は作曲され尽くしたのか」と思ったこともあった。 演歌のように語法が強く規定されたジャンルでは、初めて聴く曲でも次の展開が予測できることが多いからだ。

 

しかしクラシック音楽は違う。 映画、アニメ、宗教音楽、合唱など、調性・メロディ・和声を持つ音楽は今も作曲され続けている。 ただし、先進の芸術家は常に新しい世界を求め、オーケストラはその革新を演奏する使命を持つ。

 

結局、コンサートを鑑賞するときは、プログラムをよく検討するしかない。 未知の曲に期待してしまうが、冒険はしない方がよさそうだ。 若い頃に聴いていた曲こそが自分の心に共鳴するのだからなおさらだ。

クラシック音楽の本質は、革新ではなく「記憶の持続性」にある。

 

私はこれからもコンサートに通うだろう。 しかし、プログラムの選択だけは慎重に行うつもりである。

クラシック音楽は、私の人生の記憶と結びついた宝物なのだから。

 

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