私は自由奔放に生きてきた割には、世の中の不条理に腹を立ててしまう性分である。日々のニュースで報道される、世界のリーダーたちの人間として腐敗し切ったとしか思えないような姿には辟易とさせられる。
世界大戦終結が遠い過去になりつつある今、世界は右傾化の流れを強め、未来への希望を見失いそうになることが少なくない。
私ひとりの人間がいくら声を大にしても世の中は微動だにしない。こんな日々が続くと、この流れに身を任せて飲み込まれるか、さもなければ「世捨て人」となって、山奥かどこかの孤島で孤立無援の暮らしを選ぶしかなさそうだ。
その考え方は、昔からあったし、実際に多くの人が抱いてきたもののようだ。
ただ、私が抱いている感覚は、「世捨て人になりたい」というよりは、「この世界の醜さをこれ以上見たくない」 「自分の力ではどうにもできない出来事に心を消耗したくない」というものに近い。
歴史を振り返っても、戦争や権力闘争、独裁者、腐敗した政治家はいつの時代にもいた。そのたびに一部の人は山に入り、寺にこもり、隠遁生活を送っていた。
日本では、社会が大きく揺らいでいた時期に生きて、俗世を離れる道を選びながらも、『方丈記』や『徒然草』を書いて人生観を後世に伝えた、鴨長明、吉田兼好などがよく知られている。
鴨長明は『方丈記』の中で、戦乱や火災、飢饉などによって人の営みがいかに儚いかを見つめ、俗世から距離を置いた生活を選んだ。
ただし、彼らは世の中そのものを憎んでいたわけではなかった。
人間の欲望、権力への執着、名利を求める競争、無常を忘れた生き方に違和感を抱いていた。
鴨長明なら、おそらく「昔からそういう人間はいた」と言うだろう。「問題は悪人の存在そのものよりも、そうした出来事に心を奪われ、自分の人生までも暗くしてしまうことだ」と言うのかもしれない。
「そんな世界には付き合わない」と俗世を離れた人々もいた。
興味深いのは、本当の隠者たちが嫌ったのは「世界」そのものではなく、欲望に振り回された人間の姿であったということである。
つまり世を捨てたのではなく、世俗的な価値観を捨てたのである。
そして、欲望や執着に振り回されながら生きる人間のありようは、ずっと昔から繰り返されてきた普遍的な営みなのである。
私が世界の現実に目を覆いたいと思う気持ちにも、どこか通じるものがある。
世界には確かに醜い面がある。
しかし同時に、古い家に刻まれた人生、夫婦の何気ない会話、道端の季節の変化、誰かのささやかな親切など、何気ない温かさがどこにでも存在している。
世捨て人になるという考えが目指すことは、「違う世界へ行く」ことではなく、自分が見つめる世界を選び直すことなのであれば、こんな腹立たしさに満ちた世の中であっても、道を探すことはできそうだ。
寅さんの「まあいいや。なんてことはないんだよ。」という言葉も、ある意味ではそうした中で生まれた知恵に近い気がする。
世界の大きな出来事を変えることはできない。しかし、それに心を支配され続けるかどうかは自分で決められる。
醜いものから適切な距離を取り、本当に大切だと思うものへ目を向ける。
世捨て人とは、案外そういう生き方を選んだ人のことなのかもしれない。
そう考えると、人生はまだしばらく続けてみる価値がありそうだ。