解明することと創作することは、一見するとまったく異なる行為に見える。
解明とは、自然や社会に隠されている事実や法則を明らかにすることであり、創作とは、新しい作品を生み出すことである。
前者は真実を探究する営みであり、後者は新たな表現を生み出す営みだ。
しかし私は、この二つの行為の根底には共通するものが流れているように思う。
解明とは、すでに世界のどこかに存在しているにもかかわらず、まだ誰にも見えていないものを見つけ出す作業である。科学の発見も歴史の解釈も、その本質は闇の中に埋もれている事実に光を当てることにある。
一方で創作も、まったくの無から何かを生み出しているわけではない。創作者の心の奥には、言葉にならない感情や漠然としたイメージ、まだ形を持たない思いが眠っている。それらを探り当て、絵や文章や音楽といった形に手繰り寄せていくのが創作という行為だ。
こう考えると、解明も創作も「隠れているものを見つけ出す」という点でよく似ている。
解明には二つの段階がある。
ひとつは、人類全体にとって未知であるものを明らかにする解明である。科学者や研究者が挑む最先端の研究がそれにあたる。
もうひとつは、自分自身にとって未知であるものを理解する解明である。本を読み、人の話に耳を傾け、考えを深めながら、自分の知らなかった世界を一つひとつ広げていく。その過程で得られる発見には、純粋な知的興奮と喜びがある。
創作もまた、単なる表現にとどまらない。
自分の中にあるものを形にしようと深く集中していると、思いもしなかった感情や考えが浮かび上がってくることがある。
作品を創っているつもりが、実は創作者自身が自分の内面を発見しているのである。
だから創作は表現であると同時に探究でもある。
解明が世界に向かう探究だとすれば、創作は自分自身に向かう探究と言ってよいだろう。
解明が「世界の美しさや理(ことわり)に触れる喜び」であるなら、創作は「自分という存在の深みと可能性に触れる喜び」である。
解明の喜びが真実に近づくことにあるなら、創作の喜びは、自分だけが表現できる何かを形にすることにある。
解明は、正解が存在する世界へ近づく営みであり、創作は、正解のない世界の中で新たな形を与える営みである
解明が世界の中に隠されているものを見つけ出す営みだとすれば、創作は自分の内側に隠されているものを見つけ出す営みなのである。
どちらも目には見えないものを探し求め、集中力の極限でそれを掴み取ろうとする営みだ。
方向は異なるが、その本質は驚くほど似ている。
私には、解明と創作が「知の双璧」に思える。
思い返せば、私の半生もまた、この二つの間を行き来する時間だった。
私がこれまで傾注してきた趣味には、多分に解明という側面があった。
天文学では宇宙の仕組みや、その中に存在する自分という存在について思いを巡らせた。アマチュア無線では電波を通じて海の向こうの文化や人々の暮らしに触れた。航空の世界では機体の仕組みや技術、運用、事故の背景にある要因、操縦技術の奥深さに魅せられた。
事業として取り組んだタイムラプス撮影とその画像処理でも、当時ほとんど前例のない分野で技術を確立することに挑戦した。
それらはすべて、未知のものを知ろうとする喜びに満ちた時間だった。
しかし最後に取り組んだタイムラプス撮影と画像処理の世界では、否応がなく創作の世界にも足を踏み入れることになった。
仕事として注目と信頼を得るためには、まず自分自身が良い作品を生み出さなければならなかったからである。
それは思いもよらぬ新しい世界への入り口だった。
私はそこで、解明とは異なる創作の感動と喜びを知ることになった。自分の内側にあるもの作品として形を持ち、思いもしなかった自分自身に出会う。その体験は新鮮な驚きに満ちていた。
今こうして、試行錯誤を重ねながらも辛抱強くエッセイを書き続けているのも、その延長線上にあるのだと思う。
最初はそんなつもりではなかった。ところが、いつの間にか何かを作品として残したいと思う自分がいた。
創作と呼ぶには、まだ未熟かもしれない。しかし、自分にしか書けないものを書こうとしているのであれば、それは創作と呼んでもよいのではないかと思う。
解明を通して世界を知り、創作を通して自分を知る。
その往復こそが、私にとって生きることの楽しみなのかもしれない。
知力が続く限り、この終わりのない旅をこれからも続けていこうと思う。