誰にも懐かしい故郷という場所があるだろう。そこに身を置くだけで心が安らぎ、離れて暮らしていても折に触れて思い出す。そんな特別な場所だ。
私は大分県別府市で生まれ、東京の田無市で過ごした後、三歳のころに東京の練馬へ移り住んだ。そして就職後、大阪へ転勤するまでの約二十五年間をそこで過ごした。一般的に考えれば、私の故郷は練馬ということになる。
しかし不思議なことに、私は故郷というものへの強い執着をあまり感じたことがない。
初めて大阪へ転勤するときのことだ。同僚が十人近くも東京駅まで見送りに来てくれ、万歳三唱で送り出してくれた。私は故郷を離れる寂しさよりも、新しい土地で始まる暮らしへの期待の方がずっと大きかった。嬉しくて一緒に手を振り上げ、喜んでいたことを覚えている。
そんな私とは対照的に、故郷への深い思いというものを私に教えてくれたのは妻だった。
妻は伊豆大島の出身である。私が大阪に赴任した直後に結婚し、初めての夏休みに二人で大島の実家に帰省することになった。
熱海から船に乗るため新幹線で向かったが、その車中での妻の姿を、私は今でも鮮明に覚えている。
妻は窓の外を流れる景色を眺めながら、ずっと鼻歌を歌っていたのだった。
私はそれまで、故郷へ帰るということにそこまで強い感情を抱いた経験がなかった。だからこそ、嬉しさを隠しきれずにいる妻の姿を見て、むしろ私の方が感動してしまった。
「そんなに嬉しいんだ」
心の中でそう呟いていた。
故郷とは、こういうものなのだろうと思った。
伊豆大島の人たちは、本州などの「本土」のことを昔から「国(くに)」と呼ぶ。島を出て国へ渡ることは、昔は今よりずっと大きな意味を持っていたに違いない。
高校卒業と同時に大島を離れた妻にとって、故郷はいつも海の向こうにあった。楽しいことがあっても、苦しいことがあっても、心のどこかで懐かしく思い出す場所だったのだろう。
その妻が故郷から遠く離れた大阪で暮していたのだから、久しぶりに故郷へ向かうあの日の旅が、どれほど心の躍るものだったのかは想像に難くない。
三年も経たず、私は再び転勤となり東京へ戻ることになった。
私たちは大阪の暮らしにすっかり馴染んでいたが、東京へ帰ることもまた嬉しかった。ことに妻は、大島へ気軽に帰れる距離になることを喜んでいたように思う。
身の回りの用品をぎっしり詰めこんだ愛車で東京に向かう名神・東名高速道路の旅は、心躍る華やかな道中となった。
東京での住まいは、国立市にある、会社の「家族寮」で、外見はごく普通の団地だったが、そこには小さなコミュニティができあがっていた。
同じ支店の後輩や先輩も住んでいたし、新しい人間関係に囲まれた暮らしはとても楽しかった。一日中家で過ごす妻にとっては、なおさら心強いものだっただろう。
私はその数年後にスペインに留学することになった。
三十年以上生きてきた世界とはまったく異なる文化、人々、風景との出会いは、私には大きな衝撃を与えた。帰国するときには、「第二の故郷はスペインだ」と強く確信するようになっていた。
帰国後は飯能市に家を建てた。昔からの夢だった、庭に大きなアマチュア無線用アンテナを載せる鉄塔を建て、どこへ転勤しても帰ってくることのできる、自分だけの基地を作った。
れから早くも四十年近くが経つ。今では飯能から私を切り離す事はできない。しかし、そこを唯一無二の故郷と思ったことはない。
私は一貫して「故郷」へのこだわりに乏しい。どこに行ってもすぐに馴染み、そこがその時の故郷になる。
その後もアジア・オセアニア地方への出張を重ねた経験で、どこにでも楽園があることを思い知ることになった。
退職後、楽園と呼ばれるフィジーに渡って働いた経験は、私の中の故郷という概念をさらに広げることになった。
もはや故郷は一つの場所だけを指す言葉ではなくなっていた。
妻のように、心の中にいつも帰りたい故郷を持っている人がいる。
一方で私のように、新しい土地に出会うたびに心の居場所を増やしていく人間もいる。
ただ、あの日、新幹線の車窓を眺めながら鼻歌を歌っていた妻の姿を思い出すたびに、故郷とはその人の心が深く結びついている特別な場所なのだと感じる。
そして私にとっての故郷とは、一つの特定の場所ではなく、これまで出会い親しんできた数々の土地の積み重ねなのである。