今年も遠方から、秋の訪れを知らせる果物が届いた。
長野の小海町の知人から送られてきた、地元の特産品である「プルーン」だ。
つい先日、佐賀の親戚から届いた「梨」、大分の親戚からの「カボス」と共に、秋の到来が近いことを実感させてくれる。
この小海町からのプルーンには、毎年格別の感激がある。私のタイムラプス・フォトグラファーとしての事業活動を、小さな成功に導くきっかけとなった仕事をくれた、町役場の方からの贈り物だからだ。
あれからもう八年が経つ。
それでも変わることなく届く、季節の便りである。
プルーンをいただくたびに、夢中になって仕事に取り組んでいた懐かしい日々が思い出され、胸が熱くなる。
人生の中で、贈り物はさまざまな場面に登場する。
誕生日に始まり、好意を寄せる人へ思いを伝えるときなど、私たちは数え切れないほどの贈り物をもらい、また贈ってきた。
贈り物をもらって嬉しく思わない人は、よほど特別な事情がない限りいないだろう。
贈り物を届ける人の心には、「喜んでほしい」という願いが込められている。その根底にあるのは、「あなたは私にとって意味のある存在です」という静かな肯定だ。
「これからもあなたと関わっていきたい」という未来へのメッセージも含まれている。
日本のように、地域のコミュニティにおける互助の文化が根付いた社会では、近隣の方への「おすそ分け」といった、ちょっとした気遣いも人間関係を温かくしてきた。
金額にすればわずかなものであっても、人と人の結びつきを強める大きな役割を果たしている。
この歳になると毎年忙しくなるのが、孫たちへの誕生日やクリスマスのプレゼント、そしてお年玉である。
我が家は孫は四人なのでなんとかなっているが、十人を超える孫に恵まれた「幸せな」じじ・ばばともなれば、「期日管理」も「お財布管理」も、さぞかし大変に違いない。
ところで、女性が男性からの花束にあれほど感激するのは、男としては少し不思議に思える。
どれほど綺麗でも、いくらも経たぬうちに枯れ、儚く消えてしまうものなのに。それでも相手が心から感激してくれるのを知っているから、その笑顔が見たくて、私自身も花を贈ったことがある。
考えて見れば、贈り物とは、自分の思いや願いを象徴的な「物」に託し、相手との関係を深めようとする行為なのかもしれない。
その思いは、言葉や手紙の文章でも伝えることができる。
しかし、その思いが深ければ深いほど、言葉にすることで、かえってその濃さが薄まってしまうことがある。
無言の意思表示 ―― それこそが、贈り物の神髄に違いない。
そこに込められた感情は、突き詰めれば「相手の笑顔が見たい」という純粋な願いに行き着く。
だからこそ、お礼のひと言をもらっただけで胸が温かくなり、とても幸せな気分になれる。
逆に、心を込めて贈ったにもかかわらず何の反応もないときは、どこか不安になる。「ひと言だけでも、嬉しかったという言葉がほしかったな」と思ってしまうのも、人情というものだろう。
贈る側にとっては、物を届けることだけが目的ではない。
そこに込めた「気持ち」が相手に届いたのかということを確かめたい思いもある。
一方で、何かの見返りを一切期待せずに、誰かに差し出される物もある。
その代表が、不遇な人たちへ贈られる無記名の寄付や贈り物だ。
―― 誰が贈ったのかを知られる必要もない。「ありがとう」と言われることさえ求めない。ただ、困っている誰かの役に立てばいい。
そうした贈り物の話を耳にするたび、私は心が温まり、深い感銘を受ける。
そして、そうした贈り物は、誰かのためであると同時に、贈った本人自身の心を満たす「自分への贈り物」でもあったのではないかと思う。
人は誰かを幸せにすることで、自分自身もまた幸せになれるのだ。
だから、贈り物とは単に「物を相手に渡す」という行為ではないのだ。
そこには、「あなたを大切に思っています」「あなたの笑顔が見たい」「これからも元気でいてください」
そんな言葉にならない思いをそっと詰めて相手に伝える行為なのだ。
そしてそんな相手がいることに改めて幸せを感じる、かけがえのない機会なのだ。
物はいつか消えてなくなる。
花は枯れ、食べ物はなくなり、形あるものもやがて壊れる。
それでも、その物に込められた思いは、受け取った人の心に残る。
長野県小海町から届く、一箱のプルーン。
それは私にとって、単なる果物ではない。
八年前の仕事を思い出させ、あの頃の自分を思い出させ、そして今も変わらず気にかけてくれている人の存在を思い出させてくれる。
そう考えると、一箱のプルーンは、なんとも大きな「贈り物」なのである。
無言のまま手渡され、形あるものが消えたとしても、思いだけは静かに残り続ける。それが贈り物がそっと担っているものなのだ。