かつて天体観測に情熱を燃やした私が、過ぎ去った日々を思い起こし、気持ちが揺れ、心が静まるまで時間を要したテレビ報道があった。
それは、全国の200人ものアマチュア天文家たちが協力して行った観測プロジェクトの話であった。
掩蔽(えんぺい)観測が可能にした奇跡のフライバイ
小惑星探査機「はやぶさ2」が、去る7月5日、小惑星「トリフネ」のすぐ近くまで接近し通過すること(フライバイ)に成功した。
長さ840メートルほどの小さなトリフネに、わずか800メートルまで接近して撮影し、秒速5キロの猛スピードで通過していったという離れ技だった。
その快挙の裏にはJAXAの卓越した技術だけでなく、最大200人にも上る全国のアマチュア天文愛好家たちによって繰り返された、事前の掩蔽(えんぺい)観測があった。
掩蔽とは星などの前を天体が横切って光を遮る現象のことである。
身近な掩蔽現象では日食がある。言うまでもなく、太陽の前を月が横切って起きる現象だ。
ここでの掩蔽観測というのは、背景にある恒星の前を小惑星が横切る際に「何時何分何秒に暗くなり、何秒後に元の明るさに戻ったか」を測定するものだ。
その観測データにより、トリフネの大きさや形を導き出すのが目的である。
1地点だけの観測では、小惑星が通った跡の一本の断面しか分からないが、複数の地点で計測したデータを統合すれば、地球上に投影された小惑星の影の輪郭を得ることができる。
そして、更に計算によって大きさも推定できるのだ。
はやぶさ2がトリフネに最接近して形を撮影できるのは、最接近のわずか1分ほど前からであり、それまではひとつの点像でしかない。それほど小さな天体なのだ。
だから事前に小惑星の大きさを知っておかないと、わずか800メートルの傍を安全に通過することなど不可能だったのである。
これを可能したのが掩蔽観測であった。
何人ものアマチュア天文家が繰り返した観測の中で、あるひとりがその瞬間を捉えた。
小惑星が星の前を通過して光を遮るそのわずか0.1秒の瞬きの瞬間を撮影したビデオ画像を精緻に分析し、計算した答えが「長径840メートル・短径310メートルの楕円形状」であった。
一地点での観測データだけでは、形状の把握までは不可能であったが、熱心な天文学者の分析と研究によって、光の明るさのわずかな変化から形状を割り出す計算モデルが開発され、答えが導き出された。
この観測結果により、軌道修正を行いながら探査機は僅か800メートルの距離を猛烈な速さで通過するという「奇跡」を成し遂げることができたのである。
多くのアマチュア天文家の参加が必要だった理由
日食が観測できる範囲は地球上の細長い帯状の範囲で、その場所は限られているのと同じように、掩蔽観測ができる範囲も限られている。
観測地の選定が雌雄を決する観測なのだ。
また観測地域の天気が悪ければ見ることができない。
だからこそ、全国の多くの観測者が協力して複数地点をカバーする必要がある。天文台の1台の大型天体望遠鏡では、成し遂げられない観測なのだ。
アマチュア天文家の場合、一口に天体観測と言っても分野は大きく二つに分かれる。未知の宇宙を探るための「科学観測」と、宇宙の神秘の姿を観察する「観望」である。
一般に科学観測は大変地味な努力の継続が要求される世界である。
特にアマチュア天文家が貢献できる分野は扱う機材が限られているので、その活動の存在価値は、「空の隅々までを継続的に観測する」ことができる点にある。
昔から新彗星の発見など、アマチュア天文家が果たしてきた役割は大きい。
天文台の大型望遠鏡は基本的に観測スケジュールに基づいて決められた天体に向けられる。世界中の存在するアマチュア天文家の目の数には到底太刀打ちできないのだ。
私はかつて庭先に天体観測室を建て、かなりの資金をつぎ込んで観測機材を投入した。しかし、私が追い求めていたのは、宇宙の神秘的な姿であった。
新彗星の探索をしようと思ったことはなかった。
また、それ以外にも変光星という科学観測の対象があるのはよく知っていた。
変光星とは、明るさを変化させる不思議な恒星のことだ。
私の設備で変光星の光度変化を学術的に継続して計測することは可能だった。
そうやって観測したデータを天文台に提供し、宇宙の解明に役立っているアマチュアがいることも知っていた。しかし、何回か興味本位で観測し、データを集めたことはあったが、それを継続して科学の進歩に貢献しようというところまでの思いはなかった。
私が勤めから帰宅後、明け方近くまで観測室に籠もり熱中したのは、遠方にある小さな渦巻銀河の撮影をはじめとする、神秘的なこの世の果てに求めたロマンであった。
地道な努力の積み重ねが揺さぶった私の心
今回の小惑星トリフネの掩蔽観測に成功したアマチュア天文家は、なんと60年近く様々な天体の掩蔽観測を続けてきたという人物だった。
心躍る画像も得られず、かと言って彗星のような新天体を発見できるわけでもなく、ひたすらひとつの現象を追い続ける地味な観測に傾注して来たことに、私は驚きを越えてただ敬意を持って感銘するだけである。
私は天体観測の世界から離れて久しいが、いつも自分は天体観測の世界に没頭し、心血を注いできたと満足をしてきた。
しかし、それはとんでもない勘違いであり、思い上がりだと知った。
それは天体観測だけではなかったのかもしれない。
目先の見える物に目を奪われて、あれこれ様々な世界に手を出して生きてきた自分の過去が軽薄に見え、少なからず失望をすることになった。
何事にも飛びついて熱を上げて爆走するが、本気で腰を据えて愛し続けたものはなかったのかもしれない。
「熱しやすく冷めやすい」という表現があるが、私は「熱しやすいが、沸騰しきって蒸発すると満足して立ち去ってしまう」と言ったところだ。
ただわからないのは、今回の掩蔽観測の報道がなぜこれほどまでに私の心を捉えたかである。
天体観測の世界が、自分でそう理解してきた通り「満足して立ち去った」ものであるならば、私の心が揺れる理由はなかった。
宇宙の姿に心を奪われた人間としての魂は、変わらず生きていたからなのであろうか。