「親孝行したい時に親はなし」というが、親が健在なうちは、孝行どころか、親に向き合い真剣に理解しようと考えたことすらなかった。
そのことに気づき、もっとも大切な存在に正面から接することなく見送ってしまった自分の不甲斐なさを知ったのは、六十代も後半になってからであった。
母親は無条件の愛を注いでくれたかけがえのない存在で、私はその愛を疑うことなく受け止めてきた。母の心は十分に知り尽くしていたと言ってよい。
しかし、父親との間には距離があった。
父親は関税政策研究では名を残した経済学者であり、家ではいつも壁面すべてが書籍に囲まれた書斎で、原稿に向かっていた。
家から徒歩圏内に父の勤める大学があり、そのゼミ学生が頻繁に出入りしていた。私は幼い頃から、父をどこか「学生たちのもの」と感じていた。
父はどんな時も感情的になることがなく、常に冷静で、学生たちにも思いやり深く接していた。
私に対しても声を荒げた記憶はほとんどない。どれほど愚かな行動をしても頭ごなしに𠮟ることはなく、「どうしてそのようなことをしたのか」と尋ねたうえで、私の行動を静かに諭す人だった。
その父は、七十を超えて学長を退任し、研究も結実させ、これからは母と旅行を楽しもうとしていた矢先、病に倒れ七十二歳で急逝した。
そのとき私はまだ四十歳。
勤めていた銀行で、次々に現れる新しい世界に夢中になり、良くも悪くも自分の人生をフルパワーで暴れまわっていた。
その年齢では、自分のことでいっぱいで、父を振り返ることなく失ってしまった。
今思えば、父からは無限に貴重な話が聴けたはずだった。
戦争で海軍中尉として戦艦伊勢に乗った従軍経験。
復員後、戦前教えられたことがすべて嘘だったと知り、「真実を知りたい」と学問の道に入ったという話の詳細。
教鞭をとりながら研究生活の中で世に出した多くの著作について。
そして何より、父の価値観と人生観をじっくり聴きたかった。
さらに、今なら父に教えてもらいたい経済の話が数えきれないほどある。世界一の先生が目の前にいたのに、とうとう一度も質問することがなかったのは、これほどもったいない、不遜な話があるだろうか。
こんな私を父はどう見ていたのだろうか。
不甲斐ない息子と思っていただろうか。
黙って落胆していただろうか。
何も不安がなかったわけではなく、満足していたとも思えない。
それでも父は、一言の苦言も残さずこの世を去った。
臨終が迫る床で、父は片手で私の手を握り、もう片方の手を身体の反対側から持ち上げて勢いよく下ろし、両手で挟むようにして微笑んだ。その一瞬の姿が、今も胸を刺す。
言葉は発せられなかったが、その仕草から「あとを頼むぞ」という父が息子に託すメッセージが痛いほど伝わってきた。
あまりにも早い死だった。
私は余りにも若かった。
私が父に正面から向かい合い、すべてを吸収しようと思った時には、もう遅かったのだ。
息子と父の関係は、母とはまったく異なる。
母は「甘える揺りかご」であるが、父は息子にとっては「師」であり尊敬の対象だ。
私の心には、愚かだった自分への痛恨が残っている。
父との関係を思うと、自然と私の息子との関係にも目が向く。
私にも息子がいる。私が三十歳のときの子なので、私と父の年齢関係とさほど変わらない。
息子の生き方は過去の私と180度異なり、価値観のすべてが「会社」を前提に染まり切っている。自分の硬直した姿に気づいていないようだ。
息子は四十三歳だが、私がその年齢だった頃の行動を思い出すと、顔から火が出るほど未熟だった。しかも当時の私は自信満々で、心の揺らぎなど一切なかった。今の息子の姿とぴったりと重なる。
そう思うと、息子もきっとこれから成長に伴い大きく変わっていくに違いない。
父が私に一言も苦言を言ったことのなかったことを思えば、私が息子に口出しするのは恥ずかしい気もする。
しかし私は父のような達観した大人物ではない。息子が我が家を訪れ酒杯を交わすたびに言葉が飛び出してしまう。
息子は良くも悪くも際立って素直なところがあり、私の苦言に言い争うようなことはない。
だが、それで彼の考えが変わるわけでもない。
表面上聴く耳を装っていても、心に響いているかどうかは別だ。
さらに、年齢には年齢なりの理解力しかないものだ。
私が父の言葉に耳を傾ければ良かったと思うようになったのは、六十を過ぎてからだった。
それまでは父の言葉や考えに向き合おうとも思わず生きてきた。
四十三歳の息子にはその年齢まであと二十年ある。
そのときまで私が健在な確率は、間違いなく半分以下であろう。
彼が私の言葉を理解し、正面から向かい合おうと思った時に「親はなし」となる。
それは避けがたい人生の営みの姿であり、私はその必然を感慨深く受け止めている。