人生の最後の1キロを走るために

五十代で脳出血に倒れ、救急搬送されて三ヶ月入院した知人がいる。退職後も脳梗塞と脳出血を繰り返し、数か月前には再び脳梗塞を発症した。今では聴力を完全に失い身体もほとんど動かせなくなった。

高級SUVをローンで購入し、夫婦でのドライブを楽しみにしていた矢先の出来事だった。

 

その話を聞くだけで胸が締め付けられる。しかし不幸の話をし始めたら、六十代で世を去った知人は何人もいる。

 

人は幸せを当然のものとして受け容れているが、身に降りかかった不幸は小さなものであっても、思いがけない出来事として重く受け止めがちだ。

今まで健康と幸運に恵まれて生きてきた私は、知らず知らずのうちに訪れ始めた身体の不具合を「歳なのだから」と言って見過ごすことが出来ない。

その都度、妻にいちいち愚痴をこぼしながら「もうダメかもしれない」と冗談にもならない「ざれごと」を口にしてしまう。

 

周囲で突然不幸の淵に突き落とされた人々の姿を見てきただけに、「ついに自分にも来たのか」と思ってしまうのは、腹が座った人でない限り仕方のないことだろう。

 

世の中には、私の想像をはるかに超える不幸を突きつけられた人がいくらでもいる。その現実を私は知識として知っている。そして、それはいつか自分の身にも降りかかるに違いないことも理解している。

 

それでも、「そんなことになってたまるか」と思う自分がいて、いつも心の中で格闘をしている。


かつて仕事で東南アジア諸国を訪れたとき、貧困の中を必死に生きる人々の姿を何度も目にした。自分だったら、あのような家に住み、あのような食事をし、あのような生活を送ることには耐えられないと思った。

彼らの暮らしは、当時の私には特別で無縁な世界に見えた。

 

日本の豊かさは、彼らの生活と比べれば異次元だ。日本の最底辺と言われる人々の暮らしですら、彼らの生活に比べれば圧倒的に恵まれている。

私は今の生活レベルを当たり前だと思い、彼らの生活を別世界のものとして距離を置いている。


生活に困窮する世界に生きる人々や、健康上の問題を抱え苦しむ人々を見ても、人々はそれを自分の世界から排除し、「自分だけは大丈夫だ」と思い込むことで不安を振り払って生きている。

 

しかし、そうやって言い聞かせて生きているからこそ、そんな世界への滑落の兆候には過敏に反応してしまう。

 

私は、自分がこんなに無様な人間だとは思わなかった。もっと堂々と落ち着いた日々を最後まで生ききる人間だと思っていた。

そんな自省の中から、何とかしたいという思いが立ち上がってくる。

 

不安を完全に消すことは到底できない。年齢を重ねれば、身体のどこかが痛んだり、思いがけない不調が出たりするのは当たり前だ。

健康一筋に生きてきた私に変化が見られるようになっても、それは特別なことではなく、加齢で何が起きてもおかしくないのだという達観した気持ちになれれば、今まだ好きなように生きることができていること自体に感謝するほかない。

 

どんな高級車でも、何十年も乗り続ければ不具合が出てくるのは当たり前だ。手術で部品を交換しなければならない事態も起こりうる。

それを新車と同様な状態を期待するから不調が出たときの失望も大きくなる。

走行距離が数十万キロに達したのなら、多少の不具合はあって当たり前だと受け止め、最後の1キロまで大切に運転していくしかない。

 

自分では分かっていると言いながら、本当には分かっていないこの簡単な理屈を、今一度心に叩き込まねばならない。

 

そんな当たり前なことを、私はあらためて胸に刻み直している。

 

 

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