庭の鉢植えの花に小さな蜂が何度も止まっては離れ、また別の花へと飛んでゆく。一生懸命蜜を探し、命をつないでいるのだろう。
生き物は今も昔も変わらない。生きるための営みを淡々と続けている。
そんな蜂の姿を眺めていたとき、ふとあまり好きではない一つの言葉が頭に浮かんだ。
「AI」
かつては知的好奇心を強く刺激する、夢のような技術に思えた。私も興味を抱き、その進歩を楽しみに見つめていた一人である。
しかし、最近では、その言葉に奇妙な重苦しさを感じるようになった。
AIを開発する企業や研究者の中からさえ、「これ以上のAI技術発展が人類の脅威になり得る」と警鐘を鳴らす声が聞かれるようになった。
もちろん、それらが直ちに人類滅亡を意味するわけではない。
だが、技術を最もよく知る立場の人々が、その行く末に不安を抱いているという事実は無視できない。
かつては純粋な夢であったものが、今では開発者自身ですら完全に制御し続けられるか確信を持てない段階に入りつつある。
そのことに私は漠然とした恐れを感じている。
AIを巡る論評や解説は、今やあふれるほど存在する。
私自身、正直なところ少々食傷気味であり、あらためてこの問題について語ることに気が進まない。
それでも一つの視点から自分が感じていることを記録しておきたいと思った。
AIが人類にもたらす利益は計りしれない。
医療、科学研究、教育、福祉。多くの分野で人間の能力を補い、新しい可能性を開くことは疑いないだろう。
その一方で、私たちはその技術が持つ危険性についても語り続けている。
私は専門家ではないので、技術的な議論をするつもりはない。
私が気になっているのは、AIが人類を攻撃するかどうかではなく、その普及によって人間そのものが何を失うかという点である。
人類を滅ぼすこともできることを理解している。
その功罪は多岐にわたり、それが毎日のニュースの話題になっている。
私は、もはや技術面の議論には以前ほどの興味は失ってしまった。
それは、まさに「これ以上のAI技術発展が人類の脅威になり得る」という実感を持っているからである。
どれほど利益が大きくても、破滅の危険性を内包する技術を無条件には肯定できない。
私には既に答えが出ているように感じるが、その理解は人それぞれであろう。
実は、私は別の観点から大きな危惧を感じている。
これはあくまで私の個人の直観に過ぎない。異なる意見を持つ人も多いだろうし、それは当然だと思う。
私が危惧しているのは、AIが人間から感性や創作への衝動を少しづつ奪っていく可能性である。
音楽や絵画、小説や映画。
人類は長い歴史の中で、苦しみながらそれらを生み出してきた。
創作とは決して効率的な行為ではない。何日考え続けても一行も書けないことがある。何度も失敗し、迷い、挫折しながらようやく作品が形になる。
しかし、その苦しみそのものが創作の本質であった。
ところが生成AIは、この過程を必要としない。
将来、人間が詳細な指示を与えれば、音楽も絵画も小説も映画も自在に作り出せるようになるかもしれない。
指示されないものはAIには創れないという考えを聞いたことがあるが、指示されないものを探し出し創り出す知能を得ることさえも不可能とは思えない。
こうやって書いているエッセイや、作家が書いている文学作品も同じことだ。
詳細な設計図と指示書さえできれば、どのような大作もAIが創り出すことが可能だろう。
原作の執筆から映画の制作まですべてAIで自動作成することが不可能だと考える方に無理がある。
作家・監督の山田洋次がいなくても、「女はつらいよ」と言う映画が封切りされる時代が来るかもしれない。
作家が頭を絞らなくても、人間が感動する姿やストーリーを計算し、それを具現化する。
私が恐れるのは、芸術家が消えることではなく、人間が自ら創ろうとする衝動を失うことである。
感情表現をAIに委ねた魂を抜かれた人間は、もう一つの側面であるハード的な攻撃に直面しながら、いとも簡単に破滅させられてしまうことになり兼ねない。
もし感動する音楽がボタン一つで生まれ、心を揺さぶる小説が瞬時に完成し、映画までも自動的に制作されるようになったらどうなるだろう。
人は苦しみながら創作する理由を見失うかもしれない。
効率だけを求めれば、人間が自ら作ることは無駄に見えてしまうからである。
私が恐れるのは芸術家がいなくなることではない。
人間が創作する意味を見失うことである。
創る喜びも苦しみも手放し、与えられた作品を消費するだけの存在になったとしたら、それは人間として人間だけが出来るはずだった何か大切なものを失った状態ではないだろうか。
庭の鉢植えの花に蜜を求めて飛び回る蜂は、そんなこととは無縁である。
ただ生きるために働き、生きるために飛び続けている。
それに比べ、人類は弱い肉体を補うために獲得した知恵を極限まで発達させてきた。
文明はその成果であり、AIもまたその延長線上にある。
だがもし、その知恵があまりにも大きくなり、人間自身から人間らしさを奪うところまで進んでしまったらどうだろう。
それは単なる技術の失敗ではない。
人類が自ら生み出したものによって、自ら存在意義を見失うということになる。
もしそんな未来が訪れるならば、それは地球上で最も知的な生物が、自らの知恵によって招いてしまった極めて皮肉な結末である。
私は、蜂たちの変わらぬ生命の営みを見ながら、そんなことをつくづく考えてしまった。