人は創らずにはいられない

ペンを執って文章を書く。筆をとって絵を描く。五線譜を埋め曲を作る。カメラを構え写真を撮る。

こうした行為は、何かを創り出そうとする営みである。多くの人がそのことに熱中し、自分の感性を絞り出しながら、少しでも納得のいく作品を生み出そうとしている。

 

それぞれの世界には、始めたばかりの素人もいれば、経験を積んだアマチュアもいる。そして、職業として成り立つだけの技能と感性を磨いたプロフェッショナルも存在する。


私が長く関わってきた写真の世界は、創作の中でも少し特殊である。カメラという機材への依存度が高く、その性能が作品の出来栄えに影響を与えるからだ。

私は現役時代の最後にフォトグラファーとして活動していたが、仕事ではプロの現場で求められる品質を確保するために、高価な機材を何台も使っていた。

だが、それらの性能だけで作品の価値が決まるわけではない。

 

「弘法筆を選ばず」とまでは言わずとも、優れた作品を生みだす上で何より重要なのは、「カメラマンの目」という感性であり、そこにこそ作品の本質がある。

 

花の名所を訪れると、三脚を据えたアマチュアカメラマンが花の前に集まる光景をよく目にする。使われている機材を見ると、各メーカーの高級機が並び、中にはフラグシップ機も珍しくない。

 

もちろん高価な機材への憧れもあるだろう。しかし、たとえ趣味の世界でもそれだけの資金を投じようとする根底にあるのは、多くの場合、少しでも良い作品を生み出したいという願いではないだろうか。


一方、もの書きの世界に目を向けると、その裾野の広さに圧倒される。

noteのようなブログサイトだけを見ても、さまざまな分野で数えきれないほどの人々が執筆活動を続けている。

 

収益化を目指す人もいれば、日記のように書き綴っている人もいる。しかし、その中には自分なりの作品を残そうと、精魂込めて文章を書いている人たちも少なくない。文学界へのデビューを夢見ている人もいるだろう。

 

かく言う私も、最初のきっかけはまったく別のところにあった。しかし長いあいだ書き続けているうちに、いつの間にか良い「作品」を残したいという思いが強くなっていた。

 

この歳になって何のために作品を残そうとしているのかと思われるかもしれない。

私の場合は、人生を振り返る中で湧き上がってくる思いを言葉として取り出し、自分の足跡として残したいからである。その過程で心が整理され、不思議と穏やかな気持ちになる。

 

だから私にとっての「良い作品」とは、高い評価を得ることではない。自分が生きてきた時間の中で感じたことや考えたことを、できる限り正直に、そしてしっかりと伝え切ることである。


愛犬を失いペットロスに苦しんでいた知り合いの女性がいる。

彼女はある出会いをきっかけに、色鉛筆によるペットの精細画を描き始めた。

そして愛らしい動物たちを紙の上によみがえらせることによって、少しずつ苦しみを乗り越えていった。

いまでは何枚もの作品を完成させ、これまで経験したことのなかった創作の世界に大きな喜びを見出している。余生をその創作とともに歩んでいきたいと、情熱を燃やしているほどである。

 

百万円を超える機材を担いで花に向かう人も、言葉の海でもがきながら文章を書く人も、色鉛筆を握りしめる女性も、みな何かに突き動かされるように手を動かしている。

そこには多くの時間や労力が注がれる。しかも、それが報われる保証はどこにもない。
それでも人は、何かを創らずにはいられない

 

自分の内側からあふれ出る思いを形にすることでしか満たされない何かが、人間の中にはあるのだろう。

 

なぜ人は作品を創るのか。

 

その答えを私はまだうまく言葉にできない。

しかし自分の人生を振り返りながらこうしてエッセイを書いている時間だけは、歩んできた歳月が確かに自分の中に刻まれていることを感じる。

 

かつて仕事のために幾台もの機材を抱えていた私は、プロの一線から退いた今、お気に入りの一台だけを大切に手元に残している。 役割は変わっても、世界を見つめる一人のフォトグラファーとしての眼差しは、きっと今も自分の中に生きているのだと思う。

 

自分の内側から湧き上がる思いを形にし、作品として残そうとすること。それは人間ならではの、どこか愛おしく不思議な営みだ。

だから私は今日もまた、自分の足跡を確かめるように静かにキーボードを叩いている。

 

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