生きていく間には、周囲の人間とのいさかいは避けられない。くだらないこと、重さのあること、価値観に関わることなど、その性質と深さは様々だ。
最後まで折り合いの悪かった亡くなった姉のこと。
若くして亡くなった職場の同僚との気持ちの行き違い。
先に世を去った昔からの遊び仲間と、酒の席でかっとなってした喧嘩が原因で、ぎこちなくなってしまった関係。
思い出せば、いくつもある。
それらは、個々の行動のそのものの問題ではなく、自分が過去に作ってしまった「対立」という関係の歪の問題なのだ。
人間にはそれぞれの価値観があり、異なる考え方や主張がある。
自分がとった行動の真意が伝わらず、誤解を招くこともある。
そうした小さなすれ違いの種が、思わぬかたちで成長し、対立が生まれる。
ただ、その対立を生んだ関係の歪がそれに値するほど大きかったのかどうかはわからない。誤解と認知のズレで対立は予想以上に深まっていく。自分の正しさを守ろうとする姿勢が、それを深めていく。
人間の存在はとてつもなく儚い。
昨日争って大喧嘩をし、「こんな奴は絶対許せない」と思っても、
今日その相手が世を去ってしまえば、許せないという憤りは嘘のように消えてしまう。
目の前にいた「許せない対象」が夢の中の存在となった瞬間、その関係はすべて過去の出来事として「確定」されてしまう。
そこにはもう、未来のために「修正」するためのアイコンはない。
抱いていた憤りは宙に浮き、行き場を失う。
生きている者だけが「後悔」という時間を背負わされる。死者は沈黙を続け、対立の修正は永遠に片側だけに背負わされるが、その手段は残っていない。
そのとき、「なぜ自分は和解しなかったのだろう」という悔恨が、静かに、しかし確実に胸を刺す。
和解しないまま見送ってしまった人々の顔は、折に触れて瞼に浮かび上がり、消えることのない自戒の念を呼び覚ます。
記憶が呼び起こす彼らの顔は、どこかに寂しさを湛え、口惜しさが滲んでいる。
和解することなしに先に世を去った人たちは、私の思い出の中から決して去らない。
忘れることができれば楽になるのだろうが、そうはならない。
人間には自尊心や意地があり、感情を抑えようとしても、どうしても見過ごせないこと、許せないことに抵抗を示してしまう。
しかし、「死人に口なし」である。
彼らの時間は止まり、瞼に浮かぶ彼らの悲しそうな顔の責任は自分にしかない。
最近、そのことを強く感じるようになった。
和解とは、自分の心の「寛容さ」が生み出す「魔法の杖」だ。
相手を許すだけなく、自分の「未来の心」を守る行為だ。
その核心は、自分の「認知の硬直」を解除する点にある。
つまり、許す・許さない、正しい・正しくない、自分が傷つけた・相手が悪いといった「二項対立」を棚上げし、自分の心の未来に負債を残さないための選択」なのだ。
自分に「和解する」心の寛容さと勇気があったなら、
こんな心の負債を抱えることはなかった。
対立からは、よいものは何も生まれない。
和解は、心を穏やかにするための最後の選択だ。
そしてその選択は、いまこの瞬間にしかできない。