私の住む飯能市では、新しい道路が次々と造られている。そのなかでも、私が開通を心待ちにしているのが、全長4キロメートルの新しい道路である。両側にはゆったりとした歩道が整備され、完成すれば市内の交通の流れも大きく変わるだろう。
ところが、その道は一軒の廃屋の前で途切れている。
草木に覆われたその家は、周囲が変わり続けるなかで、そこだけ時間が止まってしまったかのように見える。
新しい舗装道路や真新しい住宅が並ぶ風景の中で、その家だけが過去に取り残されている。
私はその前を通るたびに、不思議な気持ちになる。
我が家の徒歩圏内には、近年、畑を潰して宅地開発されたり、区画整理に伴う建て直しで立派な新築住宅が立ち並ぶエリアもあるが、概して古い住宅が多い。
朝になると、新築住宅から元気よく駅へ向かう若い通勤者の姿も見られる。しかし、一日を通して目立つのは、散歩を楽しむ年寄りたちだ。
気がつけば、いつの間にか私もその仲間入りをしている。
最近、その景色が大きく二分化しているのに気づく。全体としては新しくきれいな住宅が増えているのだが、その中に「廃屋」がぽつぽつと生まれてきているのである。
庭には草木が生い茂り、背丈を超える雑草や庭木が塀を越えて道路に傾きはみ出している。壁には蔦が張り付き、窓も扉も開けられそうにない。
窓越しに見える障子はびりびりに破れ、その向こうには部屋を埋め尽くすようにダンボール箱が積み重なっている。
そんな廃屋に出合うと、まず隣家の人の複雑な気持ちを想像してしまう。しかし、それ以上に私の心に残るのは、その家の主が過ごした日々への思いである。
今は生命を失ったような姿をさらしていても、ついこの間までそこには人の暮らしがあったはずだ。
庭木は綺麗に手入れされ、障子紙は張り替えられ、台所からは夕食の匂いも漂っていただろう。
笑った日もあれば、怒った日もあっただろう。誰かの誕生日を祝ったこともあったかもしれない。
どの廃屋にも、住んでいた主が人生の終盤を迎え、その家を離れる瞬間があったのだろう。そのときから家の時間は止まったままなのだ。電気もガスも止められ、誰にも使われない空間となった。
相続する子どもたちがいて取り壊されるのを待っているわけでもなく、今は主を失い、行き先を決められないまま残されている家も少なくない。
一方で、この飯能市では新築住宅が次々と建てられている。道路開発による再開発だけではなく、農地が宅地に変わり、新しい町が生まれている。
若い世代が転入してくることは、地元の未来を明るくしてくれる。
しかし、その陰で廃屋もまた少しずつ増え、静かに荒廃していく。その姿を見るのは、なんとも忍び難い。
道路は未来へ向かって延びていく。新しい住宅には新しい暮らしが始まる。
だが、あの道路の先をふさぐように立つ廃屋を見るたびに、私は立ち止まってしまう。そこには確かに誰かの人生があり、その人だけの時間が流れていたからだ。
新築住宅も、古びた家も、廃屋も、それぞれ異なる時間を生きている。
その姿は、私には人間そのもののように思える。
あの廃屋を見つめていると、やがて訪れる自分自身の時間について考えてしまう。
娘は嫁ぎ、息子は都心のマンション暮らしを好み、もはやこの家に戻ってくる子どもたちはいない。私たち夫婦が旅立てば、いずれは廃屋になってしまうのは間違いない。
それがどんな姿になり、どのような結末を迎えるのか、私がそれを知ることはない。