自宅のすぐ近くを流れる入間川の両岸に曼殊沙華が咲き乱れていた。
台風一過で水量が増し、濁った水が勢いよく流れていたが、両岸の花々は呼吸を揃えながら初秋の歌を奏でているようだった。
私の住む埼玉県飯能市には曼殊沙華の名所がいくつかあり、季節になると多くの人が訪れ、その華麗な姿を目に焼き付けていく。
しかし私にとって、この季節は他の人とは違う重さを帯びている。
今から16年前、たったひとりの兄弟である姉が、61歳という若さで病に倒れたのが、ちょうどこの季節だったからだ。
姉は幼いころから気丈で強い性格だった。
私が近所のいじめっ子に泣かされて帰ってくると、腕まくりをして「よぉ~し、かたき討ち~!」と言いながら家を飛び出していった。
成長するにつれ、私は男であるにもかかわらず姉が自分より高い世界で逞しく活躍しているように感じ、次第に不満を募らせるようになった。
社会人となった姉は臨床心理士として働き続けた。
大人になってからも、私の放蕩生活で苦労する妻を見かねてカウンセリングに努めてくれたこともあった。
私と姉は必ずしも折り合いがよかったわけではない。
それだけに、姉の突然の旅立ちで時間が突如奪われ、取り返しのつかない未了感が残った。
もっと分かり合える可能性を残したまま、姉は先立ってしまったのである。
姉の死は、そのとき咲き乱れていた曼殊沙華の花と強く結びついた。
あまりにも細い花弁が、若くして旅立った姉の姿に重なったのだ。
人生で歌など詠んだことのない私が、自然に一句を口にしていた。
「彼岸花 細き花弁の 姉が糸」
詠もうと思って、詠めるものではない。
姉の無念な声が、私の心に届いたのでないかと思う。
曼殊沙華の球根には毒があることが知られている。
モグラやネズミを避けるため、田んぼや墓地に植えられてきた歴史があるという。その毒性が、彼岸花と呼ばれる曼殊沙華の季節と重なり、神秘的な象徴性を帯びている。
咲き誇る姿は美しいが、細い糸のような花弁と根に潜む毒性を思うと、一種独特の魔性を感じる。
昔から「美しいものには毒がある」と言われるが、曼殊沙華を見るたびに、触れることが許されない生命が宿っているように思えてならない。
曼殊沙華の特徴は群れて咲くことだ。
あの圧倒的な群生を遠くから眺める限りでは、細い花弁の繊細さを想像することは難しい。
同じように群生する花には、春のネモフィラ、菜の花、芝桜、レンゲソウがある。秋のコスモス、冬のスイセンもそうだ。
どの季節の花も明るく爽やかな彩りをしている。
それにくらべて曼殊沙華は、独特の異様さを放っている。
赤く目立つのに、決して「明るく爽やか」とは感じないのは、私だけなのかもしれない。
今でも私は、姉と曼殊沙華を切り離して受け入れることができない。
姉の強さが曼殊沙華に宿り、自分の果てぬ存在をこの世に知らせているように感じる。
姉は優しかったが、私より遥かに強く勇敢な人だった。
あの花には、いつも姉の気丈な気配が宿り、至らぬ私を静かに見つめているように思えてならない。