両極端の老い

年寄りにありがちな、「両極端」

 

娘が私と義父を見比べて、笑いながら言った。

 

「年寄りにありがちな、両極端のいい例だね。」

 

ついこの間までおしめも乾ききらない小娘だったはずが、今では親に向かって堂々と批評を加える。しかし、その批評が的を得ている以上、私は苦笑しながら頷くしかなかった。

 

私は、昭和の「健康優良児」として表彰され、その後も大病らしい大病を経験したことがない。体格はがっしりとしており、外見だけ見れば老いてなお健旺、人生を闊歩していけそうな印象を与えるだろう。実際、その通りに進む可能性もある。

ところが内面は案外と心配性で、普段は威張っているくせに、身体の些細な異変にも過敏に反応し、つい妻に弱音を漏らしてしまう情けない一面を持っている。外見と内面の落差を知らぬ者が聞いたら、失笑するに違いない。

 

一方、娘の嫁ぎ先の義父は、私よりわずかに年上だが、性格は正反対である。外見からして健康上の不安が透けて見えるのに、「大丈夫、大丈夫」と楽天的に受け流し、周囲の懸念をほとんど意に介さない。

娘はこの二人を並べて笑いながら、「どうして足して二で割ったような人間にならないのか」と首をかしげる。


老いが「両極端」を生む理由

 

興味深いのは、娘がこの状況を「年寄りにありがち」と捉えた点である。すなわち、老いとは「マイペースの極端化」であり、その方向が人によって真逆に現れる。

 

人生の後半になるほど、「自分はこうして生きてきた」という確信が強まり、長年の経験則が行動の基準として肥大化する。結果として、慎重さはより慎重に、楽天性はより楽天的に、両極端へと振れやすくなる。

 

私の場合、外見は頑健であるがゆえに、わずかな異変を過大評価してしまう。

義父の場合はその逆で、身体の弱さを認めて不安に沈むより、楽天性によって自己像を支えているのだろう。


追い打ちをかける認知の疲弊

 

極端化を促すもうひとつの要因に、認知の疲弊がある。複雑なことを考えるのが億劫になり、思考の負荷を避けようとするため、論理を単純化し、右か左かの二択で判断する傾向が強まる。

その結果、慎重さはより慎重に、楽天性はより楽天的に、性格の振れ幅はさらに増幅される。

 

いま私がこうしてエッセイを書いているのも、頭に相応の負荷がかかっている。しかし文章は、書いたものを読み返し、構造を組み直し、時間をかけて推敲できるため、なんとかクリアできている。


極端化とは、人生の晩年の力学

 

老いとは、単なる機能低下ではなく、

 

・経験則の硬化(自己像の固定化)

・認知の疲弊(思考の単純化)

 

この二つが絡み合い、性格を両極端へと押し広げる力学である。

 

若い頃の自己像は流動的で、他者の評価や社会的役割によって揺れ動く。しかし人生の後半になるほど、人は「自分はこういう人間として生きてきた」という確信を手放さなくなる。

 

経験則の硬化が、自己像を強固にし、認知の疲弊がその修正を困難にする。

その結果、人は自らの物語を守るために、むしろ極端化へと向かう。

 

老いの極端さとは、人生の物語を肯定しようとする最後の力学なのかもしれない。

その人が歩んできた道が、晩年において極端化という輪郭を帯びて立ち上がる姿なのである。

 

 

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