嘆きが仕上げる、人生という物語

私はこれまでの体験から、自分の脳の記憶力には偏りがあり、関心を寄せたものにしか集中しないことを知っている。最近は加齢によって記憶能力そのものが低下し、いまや妻の記憶力の助けがなければ、私は過去の出来事に無責任な人間として、周囲の嘲笑を買っていたに違いない。

 

こうしてエッセイを書くときも、自信が持てない題材の場合は、ソフトを使って過去のすべてのエッセイを横断的に検索し、同じテーマを扱っていないか確認をする。題材によっては九割近い確率でヒットすることもあり、その途中で書くことをやめて削除したファイルは数えきれない。

 

しかし、今の私の嘆きは記憶力だけではない。いつの間にか、挙げ始めればいくつにもなる身体の不調を抱えるようになった。耳が遠くなり、肩が痛み、片手の握力が落ちて不自由を感じる、歯が抜け、身体のバランスが悪くなり欄干のない小さな橋を渡るのが恐くなる。いくらでも出てくる。

 

近所をふらつかずに自転車で走る高齢者や、テレビの山番組で、険しい岩場をすいすい登る高齢者を見るたびに、私は自分が失った過去の大きさを思い知り、落胆する。

 

自信を失うということは辛いものだ。若い頃から「超」がつくほどの自信家だっただけに、その落差は普通の人が体験するよりも大きいはずだ。

 

人生には清算が付き物だ、わがまま放題に生きてきた人間ほど、歳を重ねると過去を悔い、改悛の念で身を洗い清めようとする。

自信を持つこと自体は悪いことではないが、その自信が見過ごしてきた増上慢な自分の姿を、こうして後になって思い知ることになる。


問題は、この挙句、これからどう生きていけばよいのかという精神的な方向性である。どのように自己像を再編成したらよいのかという精神的作業である。

もはやこれは若いときから歩んできた道の延長線上ではなく、まったく別の地平が必要な気がする。

 

そんな折、私はドイツの心理学者エリクソンの発達理論に触れた。彼によれば、老年期の課題は「統合か絶望か」である。

もちろん、絶望という選択肢は私にはない。

 

「統合」とは、成功も失敗も含めて自分の人生を一つの物語として受け止め、その充足感を得ることである。そして統合が進まないと、「自分は間違っていた」という「絶望」につながってしまう。

 

よく考えて見ると、私が直面した「衰え」の嘆きは、まさに統合の入り口である。衰えによる喪失は、人生の物語を完成させるための素材として作用する。

 

歳をとってからの私は、無意識に自分の人生を「物語」として俯瞰しようとしてきた。だからなのか、失われた自信はいつの間にか私の心に鞭を打ち始めている。なんとかして「物語」を磨こうとしているようだ。

 

この反応は、おそらく私と言う人間の本性だ。ただでは死んでたまるかという防御反応かも知れない。

 

人は喪失を経験しない限り、自己像を再編成する必要に迫られない。

 

 

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