「自然の摂理」が危険なクマを可愛いと感じさせる意図

近年、クマが人間の生活圏へ侵入し、山中でも狂暴化して駆除の対象となる事例が増えている。

ビデオに記録された人を襲う姿や、箱罠にかかって逆上し牙を剝く様子は、見る者を戦慄させるに十分だ。

 

その凶暴な姿を目にするたび、私は一つの奇妙な事実に思い至る。

―― 人間は、クマに対して本来「愛着」を抱いているということだ。

子どもたちのぬいぐるみにクマは欠かせず、童話には「くまのプーさん」まで登場する。

 

ヒグマにせよツキノワグマにせよ、人間に牙さえ剝かなければ、犬猫に次ぐパートナーになれたかもしれない。

彼らは雑食で、木の実などが主食である。人間を食料として襲っているわけではない。

それなのに、あれほど愚かとも思えるほどの危険行動をとる。

 

さらに驚くべきは、愛らしさゆえに熱狂的なファンが絶えないパンダでさえ、人を襲うという事実だ。

顎の力はヒグマ並み、前脚の筋力は極めて強い。

縄張り意識が強く、食物や子に近づく者はすべて攻撃対象となる。

頻繁ではないが、攻撃されれば人間は重傷を負う。

「パンダ=可愛い=安全」という図式は、完全な誤解である。

 

ホッキョクグマも同様だ。

白い毛に覆われたぬいぐるみのような姿から、あのクマだけは人を襲わないだろうと思われがちだが、それも誤解である。

ホッキョクグマはアザラシを主食とする完全肉食動物であり、人間を積極的に襲うこともある。

遭遇すれば、時速40kmで走る彼らから逃げ切ることは不可能で、まず助からないとされる。


こうして見ると、クマはどうやら枕元に置くぬいぐるみではなさそうだ。

だが、それでもなお、なぜ人間はこれほど危険な動物を「可愛い」と感じるのだろうか。

 

人間が本能的に「かわいい」と感じる特徴 ――

大きな頭、丸い顔、小さな鼻、つぶらな目、ふわふわした体毛、ゆっくりした動作。

これらは、クマが進化の過程で獲得した身体的特徴と偶然一致している。

 

心理学の研究によれば、赤ちゃんに共通する形態的特徴は、大人の脳に「守りたい」「近づきたい」という反応を引き起こす。

大きな頭と広い額、顔の下部に位置する大きな丸い目、小さな鼻と口、ふっくらした頬、短く丸い手足、ぎこちない動作。

これらは人間の本能的感性であり、赤ちゃんを守るための進化的適応だ。

 

では、なぜこの本能が獰猛なクマの容姿と一致してしまったのか。

 

現代の進化心理学・動物行動学では、この一致は「偶然」であり、自然界の形態が人間の認知の弱点を突いてしまったと説明する。

人間の脳は「かわいい=守るべき=安全」という短絡的回路を持つ。

クマはその回路を誤認させる形態を、機能的理由から偶然持ってしまったというわけだ。

丸顔・大きな頭・ふわふわした毛は、保温・筋力・咀嚼力などの機能的理由で進化したもので、人間に好まれるためではない。


しかし、可愛いと感じられる動物はクマだけではない。

タヌキ、レッサーパンダ、コアラ、アザラシ、ラッコ、ウサギ――

人間が「かわいい」と感じる動物は、いずれも共通した身体的特徴を持つ。

これほどの一致が、果たして偶然で片づけられるだろうか。

 

さらに、人間自身も動物である。

生存のために進化したはずの脳が、危険な動物を見てもまず「かわいい」と感じてしまう。

これは生存戦略としては不合理であり、むしろ矛盾である。

にもかかわらず、脳はそのように配線されている。

ここにこそ、「偶然と考えることの矛盾」があるように思えてならない。

 

学術的見解はともかく、自然界の仕組みは多くの場合「理にかなっている」。

それゆえ、この一致だけが妙に不自然に見える。

 

私は、これは偶然ではなく、自然界全体として「その方が都合がいいから」あえて矛盾が生まれるようにできているのではないかと感じてしまう。

学界の見解を前にすれば、無謀で無見識な発言に思われるだろう。

しかし、私には決してどこかの宗教的思想ではなく、宇宙に始まる自然界、とりわけ地球上の生命世界には、偶然に見えながら「何か見えない自然の摂理」に支配されているように思えてならない。

 

人間に危害を及ぼす動物たちの姿を偶像化し、最も純粋な赤ちゃんが例外なく心を奪われてしまうあの姿を見ていると、決して偶然でない、何かがあるのだとしか思えない。

 

恐らく、間違いなく、私の人生でこの矛盾が解かれることはないのだろう。

それでも私は、最後までその理由を問い続けるに違いない。

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