小学校低学年の孫娘が、ひとりで「お泊り」に来たときのことだ。
帰りの時間が迫るなか、母親から持たされた宿題の問題集を取り出し、言われた範囲をなんとか終わらせようと格闘し始めた。
算数の宿題に向かっているのだが、難しいようでまったく集中できず、両足を投げ出して伸びばかりしている。
何に苦しんでいるのか、横に座って覗いてみた。
「時刻の足し算・引き算」の問題だった。長針と短針のある時計の絵が描かれていて、その時刻から「40分後は何時何分か?」といった問いが並んでいる。
針の位置を見ながら考えれば、それほど難しい問題には見えない。しかし、低学年の子どもにとっては、頭を使う課題であることはすぐにわかった。
結局、かなり私が手伝って、彼女は問題集を終えた。 終わった途端、彼女の表情はにわかに明るくなり、学校から支給されているタブレットPCで生き生きと遊び始めた。その様子を見ていて、ふと気づいたことがある。
彼女たちは、時間を画面に表示される「数字」数で認識しているのだ。時計と言われれば、まずデジタル表示の世界を思い浮かべる。つまり、彼女は「10進法」の世界で時間を扱っている。
だから、1時間が60分という「60進法」は、彼女にとって極めて不自然な体系なのだろう。
今の世の中で、日常の計算はほとんどすべて10進法で行われている。その中で、時間だけは60進法で動いている。
デジタル表示に慣れた子どもにとっては、「時間とは10:20や11:05といった数字のラベルであり、その背後に60進法が潜んでいる」という二重構造を、改めて意識させられることになる。
それは、私たちが突然「1時間は70分だ」と告げられ、その新しい規則で計算しろと命じられるのに近い戸惑いかもしれない。そう考えると、彼女が途中で音を上げてしまうのも、無理のないことのように思えてくる。
しかも、それを針二本の位置から読み取らなければならない。そこには、数字の計算とは別の変換作業が必要になる。
私にとっては、その変換がほとんど瞬時に行えるので、時間を「量」として認識できる。時計の文字盤の上で、今が一日のどのあたりに位置しているか、一瞥で把握できる。予定の時刻まで、どれくらい時間の距離があるかも、針の角度として直感的に読める。
これは、アナログ時計が与えてくれる大きな利点である。
それに対して、彼女は時間を直感的には「量」としてではなく、「時刻」としてしか捉えていなかった。 彼女にとって時刻の間にどれほどの長さがあるかは、視覚的に結びついていない。数字が変わることはわかっていても、その変化が「どれくらいの距離なのか」という感覚にはつながっていないのだ。
この認識方法の違いが実生活において影響する差は、決して小さくない。
例えば私の場合、夜中にトイレに目が覚めたとき、寝ぼけた目で枕元のデジタル時計を見ても、一瞬では「今が夜中のどの辺りなのか」がつかみにくい。数字だけがそこにあり、その数字が一日のどの位置を指しているのかを、頭の中で改めて計算し直さなければならない。
ところが、トイレに行って壁にかかっているアナログ時計を見ると、一瞬で把握できる。短針と長針の位置関係を見ただけで、「夜中の前半なのか、明け方に近いのか」が、量として目に飛び込んでくる。
精密に時刻を知るにはデジタル時計が便利だが、一瞥で自分が一日のタイムテーブルのどのあたりにいるかを教えてくれるアナログ時計は、今でも私にとってはとても重宝な存在だ。
そういえば、自動車の速度計もデジタル表示だけのものがある。数字を読み取って認識することはできるが、私は、メーターの「針の傾き」という「量」で瞬時に速度を感じ取れるアナログの速度計の方が、圧倒的に好きだ。針の位置が、今の状態を身体に直接伝えてくれる感覚がある。
今の子どもたちは、何の抵抗もためらいもなくデジタルの世界に入り込み、そこで遊び、学んでいる。 私の幼少時代と比べれば、まるで別の星に住んでいる人間のようでもある。彼らは、数字や記号の世界を自然な環境として受け入れ、その中で時間を扱っている。
たまたま時計のことで改めて認識したのだが、世の中のほとんどがデジタル化していくこれからの世界では、アナログ時代に私たちが享受していた「量」で把握するメリットを、どのように補っていくのだろうか。 時間の長さや位置を、針の角度として直感的に読む力は、やがてノスタルジーとして薄れて消えていくものなのだろうか。
短針と長針が並ぶアナログ時計が、完全に過去のものになったとき、人々は時間をどのような形で「量」として理解するのだろうか。
60進法の計算そのものは、機械が代わりに処理してくれるだろう。
しかし、その背後にある「時間の距離感」は、人間が目で感じ取るものだ。
デジタルの数字だけを見つめる世界の中で、私たちはどのようにして、自分の一日を「量」として感じ続けるのだろうか。