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             外国語ing My Way
        情報マガジン NO.000003  2004.6.28配信
 サポート・ホームページ:http://www.ki.rim.or.jp/~jr1maf2/gmyway/
           メール:jr1maf2@ki.rim.or.jp
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これが本メルマガの第3号をお届け致します。

ご意見、ご感想、ご相談、ご要望、その他なんでもサポート・ホームページ
http://www.ki.rim.or.jp/~jr1maf2/gmyway/ 掲示板にお気軽にお寄せ下さい
何人かの方にはさっそく掲示板でご挨拶をさせて頂く事ができました。
これからこのメルマガの内容をより良いものにする為にも、是非みなさまのご
意見・ご感想などをお聞かせ頂ければと思います。

また、まだ内容は極めて乏しいですが、サポート・ホームページ内に「語学関
連グッズ」コーナーを設置しました。 インターネット上のあちこちにあるオ
ンライン商品のリンクを集めて行きますので、是非ときどき覗いてみて下さい
特に地方の方は、普通では手に入り難い物も簡単に購入する事ができますので
そうぞお楽しみに!
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連載記事:「外国語ing My Way」バイブル・シリーズ(3)
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(5)大学時代 ・・・炎を上げて激しく燃える英語とアメリカへの情熱

一年間の浪人生活を経てなんとか大学に入って、やっとバイトができる様にな
り、遂に念願の声による電話通信ができる(マイクを使って音声で通信できる
)無線機を手にする事ができる様になりました。 それはもう、夢の様な日々
でした。

毎日アメリカのアマチュア無線局と1時間も2時間も交信を楽しみました。 
電波の伝播状態の良い時は、まるでFMラジオ並の音質でいくらでも会話ができ
ました。 もう、燃え上がった炎を誰も止めることはできません。 話題は自
己紹介や天気の紹介、自分の使っている機器の紹介に始まり、彼らの生活の様
子や色々な事に対する考え方を聞いたり、時には英語の文法上の質問をしたり
と、およそ尽きる事はありませんでした。 毎日が自分にとって「革命」の嵐
でした。

交信(10分位の時もあれば、2時間位おしゃべりし合う事もありました)の
最後に、相手のアメリカ人に「How's my English?」(私の英語は
どうでしたか?)と良く尋ねました。 すると、社交辞令のうまい彼らは決ま
って 「You speak very good English. I wish I could speak Japanese
as well as you speak English」(英語がお上手ですね。 私もあなたの
英語くらい位流暢に日本語を話してみたいものです)と、まるで判を押した様
に言ってくれました。

そんなある日、いつもの様にCQコールを出していると、アラスカのRayと
言う人が呼んで来て、交信が始まりました。 30分くらいの楽しい交信の最
後に、私はいつもの様に「How's my English?」と聞きました。  
定番の答えを期待してた私に、何とそのRayさんは「You have a
very bad Japanese influence on your English accent」(あなたの
英語にはかなりひどい日本語なまりがあります)と言ってきたのです。 驚き
ました。 心臓が止まって椅子からずり落ちそうになった位です。 だってそ
の時まで何百人ものアメリカ局と交信して来ていて、そんな事を言われたのは
一度もなかったのですから。

Rayさんに指摘されたその単語は「signal」と言う単語でした。 その日は
それから更に30分間かけて、発音をなおされました。 たったその一単語を
30分かけて忍耐強く直してくれたのです。 交信の最後にRayさんは「も
しこのレッスンを続けたかったら、明日同じ時間に同じ周波数に出ていらっし
ゃい」と言いました。 これが私の人生をその後大きく変えてくれた偉大な恩
人との出会いでした。 

その翌日から、大学4年間の間、ほとんど毎日、短くても1時間長い日は3時
間以上もRayさんとの交信が続く事となりました。交信の内容はおよそすべ
ての事に渡り、写真やプレセントの交換もあいまって、まだ一度も会ったこと
がないのに、お互いに旧知の友の様にかけがえのないフレンドシップで結ばれ
る様になりました。 それこそ電波を通じて家族ぐるみのお付合をしているよ
うな状況でした。

大学卒業前に、Rayさん一家に会いたいの一心で一ヶ月にわたりアメリカ放
浪の旅にでました。 もちろん、初めての海外旅行です。 今でこそ海外旅行
なんてなんでもありませんが、当時は海外旅行をすること自体、まだまだ大変
な事でした。(羽田空港まで友人たちが20人近く見送りに来てくれて、万歳
三唱に送られての旅立ちでした)

初めて乗った飛行機の窓の外の景色に釘付けになって10数時間、飛行機はや
っとロスアンゼルスの近くまでやって来ました。 見るとずっと続いて来た太
平洋が途切れ、そこにアメリカ大陸西海岸が見えて来ていました。 私は目頭
が熱くなりました。  何年も前から夢見て来たアメリカが今目の前に横たわ
っているのです。 あんなに苦労して無線機を作った事に始まり、大学4年間
毎日交信し続けて来たアメリカが、目の前に横たわっています。 私が日本の
自宅から発信した無線の電波が、今自分が飛んでいる位置(つまり空高く)か
ら、このアメリカ大陸に降り注いでいたんです。 そのダイナミックな地球規
模のロマンをあらためて感じた時に、私はもう感無量でした。

Rayさん宅には一週間も泊めてもらいました。 いつも交信で聞かされてい
たオーロラが滞在中に一度も見れず、私以上にRayさんが心を傷めていたと
ころ、夜アンカレッジ空港まで見送ってもらう道中、山の中で急に車を止め彼
は大声で叫びました。彼の指差す天を見るとそこに美しいオーロラが広がって
いたのです。 二人は感激で、目に涙を浮かべて喜び、そして別れを悲しんだ
事は今でも決して忘れる事のできない思い出です。

Rayさんと別れて「Lower 48 States」を、今まで交信をしたハムを
尋ねて旅を続け子供のころから夢見てきたアメリカが期待を裏切らない素晴ら
しい所である事を確信しました。 一言で言って、アメリカと、アメリカ人の
素晴らしさは、その広大な自然と、それに負けない雄大でおおらかな国民性で
ありました。

一ヶ月の旅を終えて帰国し、待ちわびていたRayさんと再び空で会ったとき
(無線で交信したとき)、Rayさんは驚きと喜びの声を上げてくれました。
私の英語がまったく変わった、本当にアメリカ人になったと言うのです。 
4年間にわたり毎日何時間もの会話を楽しんでくれ、そしてそれが最後に私を
アメリカへ旅立つ決意をさせ、それを終えたその時に、私は4年間の努力の結
果が出たのだと思いました。

余談ですが、私はこの時、大手都市銀行に就職が決まっていました。 時に昭
和51年、就職不況の年で、どの企業も軒並み採用人員を前年の数分の1以下
に控えた年でした。 大学も成績も見るべきところがなにもない私が、当時文
科系では一番人気であった都市銀行に入れたのは、実は私の過ごしてきた炎を
上げて燃焼しつくした4年間の大学生活のお陰だったのです。 「学生時代に
何をして来ましたか?」と言う面接官の質問(最初は5〜6人ずつのグループ
面接でした)に、「英語が好きで好きで、アマチュア無線局を設置して毎日毎
日アメリカとの交信に没頭して来ました。」と答えた一言で、私はすぐ個人面
接に進み、あっと言う間に採用が決まってしまったのです。


2.スペイン語が開いてくれた未知の世界と人生の革命

(1)我が人生最大の運命の転機の始まり

社会人となってからもRayさんとの週末の交信や交流は続きました。 アラ
スカでRayさんと共に過ごした時に生まれて始めて見た、信じられないほど
大きなモービル・ホームやキャンピング・トレーラー(キャンプを楽しんでい
るのではなく、家として住んでいる)に大きな感動を受け、遂に自分で手作り
で小型のキャンピングカーを作る決心をしました。

当時は日本国内でキャンピングカーを見ることはまずなく、だいたいまともな
キャンプ場は全国あわせても10数箇所しかなかったように記憶しています。
ましてや車でキャンプ場に入るなんて普通では考えられない時代でした。

2年かけてワゴン車を改造して上下水道設備、コンロ、換気扇、床、壁、収納
庫、テレビ、オーディオ(当時は車の中で大音響で楽しめるハイファイステレ
オなんてありませんでした)それを駆動する電源設備なども作り込みました。
日本中、何処の川や湖に行っても車でキャンプする人など誰もいなかったので
何処に行っても自然をただ一人で独占して満喫していました。 それから10
年後にやってきたアウト・ドア・ブームは、私ひとりの物を1億人の物にして
しまいました。(笑)

こうして私の中に「アメリカ」は生き続け、私はそれが誇りでした。 27歳
で結婚してからも、常に行動の規範もお手本も、そのバイブルは「アメリカ」
にありました。 アメリカ人のおおらかさとホススピタリティ(もてなし)の
卓越さは家庭生活の中でも常に理想の姿、めざす姿として生きていました。

私が32歳になった時、私に想像もしない出来事がやって来ました。 スペイ
ン語留学の発令です。(一年間単身赴任) 正に晴天の霹靂でした。 常にア
メリカの支店に転勤したい、アメリカで仕事をしたいと言い続けて来たのです
から、海外へのチャンスが来るとすればアメリカ拠点への転勤しかないと思い
込んでいたからです。 留学先の国はメキシコかスペインを選んでいいと言わ
れました。 私は呼び出された本店の人事部で、その場で「メキシコにして下
さい!」と即答してしまいました。 理由は単にメキシコはアメリカの隣だっ
たからです。(笑) 留学中に機会があればアメリカに行くこともできるだろ
うと考えたからです。

人事部を後にして支店に帰ると支店長がおめでとう!と出迎えてくれました。
メキシコを選んだと報告すると、支店長は(ブラジル勤務経験があり、ラテン
世界を良く理解しておられる大変素晴らしい人格者支店長でした)私にスペイ
ン語をやるのなら是非本場で学びなさいと、スペインへの留学を強く勧められ
ました。 結局私は心の中では涙を流しながら(笑)その言葉を信じ、スペイ
ンを留学先にする事にしました。 これが私の人生での最大の運命の転機とな
ったのです。


(2)スペイン語習得への道

留学まで残されていた期間は3ヶ月でした。 毎日仕事が終わってから語学学
校通いが始まりました。 先生は日本人の夫を持つ若いコロンビア人の先生で
した。 マン・ツー・マンの課程を選ばせて貰えたのは幸運でした。 もとも
と英語であれだけ熱心に勉強してきた私です。 最初はなんでスペイン語なん
かやらなきゃいけないんだと思ったはずなのに、気が付いて見ると無我夢中で
勉強を始めていました。 

通勤電車の中、昼休みの時間、家に帰ってからは睡眠時間を3時間だけ残して
すべてスペイン語の勉強に集中しました。 初めてのラテン系の言葉は私にと
って発狂寸前モノでした。 なんでこんなに何でもかんでも活用するんだ! 
おまけに男性だの女性だの中性だの、こんな言葉覚えられるわけないじゃない
か!と短気を起こすくらいでした。

しかし、やらなければいけない事は、英語の経験で分かっていました。 「と
にかく理屈は後回しにして頭から覚える事、わからなかったら暗記しちゃえ!
」「相手の話している事なんかわからなくたって、そんなの後回しだ! とに
かく自分が言いたい事をすらすらと表現できること、しゃべれる事を最優先だ
!」 かくして、通勤電車の中でも目をつぶってブツブツと念仏を唱える日々
が続きました(暗記したのを思い出しての復唱です)

とにかく大学受験の時とは比べ物にならない程の勉強の仕方でした。 この勢
いで受験勉強をしていたら間違いなく一流大学へ合格していたと確信が持てる
くらいでした。 努力の甲斐あってか、わずか3ヶ月のレッスンで、スペイン
語の文法テキストをほぼ終わりまで進んでしまいました。 仕事をしながらの
夜学通いでの事ですから、多分これは驚異的な事であったのではないかと思い
ます。 お陰で、スペインに着いたその日から居酒屋でもどこでも、とにかく
カタコトで多少は話せるようになっていました。


(3)崩れ去る価値観 … 自らの革命と「解脱」

さて、スペインはアメリカとまるで違っていました。 

人々は仕事をしないし、約束の時間だって平気で守りません。(約束の時間通
りに行くのは失礼だ。 約束の時間に30分くらい遅れて行くのが礼儀だと学
生に教えられました) 居酒屋に行っても床にタバコは平気で捨てるしゴミだ
らけ。 カウンターでワインやビールを飲むときも、まず足で床の邪魔なゴミ
を掻き分けて足場を作ってからカウンターに手をつかなければなりません。 
ただ居心地は不思議といい。 

大体うるさいルールとかがない。 皆が思いのまま楽しく過ごしている感じで
す。 「スペイン人はしょうがないなぁ」と、呆れながらも快適に日々を送る
ことになったのです。

私は500年以上の歴史を誇るヴァジャドリッド大学の学生寮(100人)に
ただ一人の外国人として入りました。 すぐに親しい仲間ができ、24時間入
れ替わり立ち代り彼らと接しながら暮らすことになりました。 

噴水のあるパティオ(中庭)を囲んで食堂があって、めいめい気のあった仲間
同士が6人掛けのテーブルを囲んで食事をします。 ある日、こんな事があり
ました。 わいわいがやがや雑談をしながら食事をしていた時の事です。 い
つもと違ってだんだん雑談の声が高くなって来ました。 私はお腹がすいてい
たので黙々と食べていたのですが、どうやらただ事ではなさそうです。 突然
6人の内の2人が机をバンバン叩き始めて、もうこれは明らかに喧嘩でした。
よっぽど深刻な話題なのだろうと思って良く良く話を聴いてみると、実は生ハ
ム(豚の腿から足の先までの一塊の肉を塩を刷り込んで長い時間吊るして作る
おいしいハムで、スペインの代表的食品のひとつです)をスライスする時に足
のほうからナイフを入れるのか、腿の付け根の方からナイフを入れるのか議論
をしていたのでした。

街でスペイン人に道を尋ねる時は大変です。 私がその人に尋ねると、なんと
その人と同時に周りにいる数人が一斉に教え始めるのです。 お互いに他の人
が同じように教えている事は一切頭にないのです。 まるで大合唱です。

とにかく話すことが好きな国民です。 すぐに真剣な議論になり喧嘩もどきに
なってしまいます。 私がある時、学生達に見るに見かねて話した事がありま
した。「そんなに自分の主張ばっかりぶつけないで、たまには黙って相手の話
を聴いてみたらどうだ? それが大人ってもんじゃないの?」  果たして私
は彼らから一斉攻撃を浴びることになりました。 彼らの主張は、「大人だっ
たら意見を主張しなければならない。 何も言わない(言えない)のは赤ん坊
と同じじゃないか。」と言う事でした。

すべからくスペイン人の議論は議論になっていない事が多いのです。 それは
彼らの議論とは「自分の主張をまくしたて合い」であって、「相手の意見に耳
を傾ける」事は二の次で、従っていくら時間をかけても論理的に話の道筋が展
開して前に進んで行かないのです。(議論する意味がない)

彼らは概して親日的で、(ただしゲイシャ、フジヤマ、ハラキリ、カミカゼし
か知らない)良く私のところにやってきて、自分が持っている時計やラジオな
どを見せながら「カシオ、カシオ」、「パナソニック、パナソニック」と、日
本の技術の高さをたたえ、日本人は頭が良いと褒めちぎっていました。

いつの間にか私は錯覚に陥っていました。 「彼らにとって日本は憧れの国な
んだ。 彼らは仕事も一生懸命しないし、約束は守らない、口を開けば子供の
喧嘩、どうしようもない国なんだなぁ。 昔行ったアメリカとは随分違うなぁ
。」...と。

留学を始めて半年も経ちスペイン語にもすっかり慣れ、寮のスペイン人学生達
ともすっかり仲良く打ち溶け合っていたある日、私は学生達に尋ねました。 
「日本に行きたいだろう? 日本人になって生活してみたいだろう?」と。 
日本に憧れ褒めちぎっていた位なんだから、当然「うん、うん、」と言う答え
を期待しての事です。 

ところが彼らの反応は全く反対だったのです。 一斉に肩をすくめ、「冗談じ
ゃないよ! そんなの死んだって御免だ。 日本人は何の為に生きているのか
わからない。 何でそんなにあくせく働いて一生を全力疾走で走り抜けようと
するのか。 日本には生活(人生)ってものがないよ!」

その時の私のショックは例えようもないものでした。 正に頭の後ろからハン
マーでガ〜〜ンと殴られた様な、そんな強烈なショックだったのです。 あま
りのショックに目がくらみ、そこで気を失いそうでした。 それまで、私は彼
らは日本にあこがれ日本を敬っていると信じていたのですが、実は彼らは「生
きるすべも知らない」日本人を馬鹿にしていたのです。 私がそれを彼らの言
葉や行動から汲み取れなかっただけだったのです。

私がその時までスペインに対して思っていた否定的な評価が180度変わり、
スペインとスペイン人を本当に理解し、スペインとスペイン人を心の底から愛
する様になり、そして過去にアメリカから引きずってきた足かせの様な心の錘
(おもり)から解き放たれたのはその瞬間からでした。

スペイン人は自分の感情をとても大切に生きています。 もともと人間は「教
科書」で割り切れる様な合理的な生き物ではないのです。 ドロドロした所や
情けない所等色々あって人間なのです。 その不条理を「教科書」を持って制
しているのがアメリカなら、それをまず最初に有きとして正面から受け入れた
上で、調和なり節度なりを求めていこうとするのがスペインを代表とするラテ
ンの国々なのです。

そんな彼らの生き様を理解し得た時、それまであこがれていたアメリカに感じ
ていたある種の窮屈さ(最大限の権利が保証されている裏に最大限の義務と責
任がある)と、日本の伝統的な価値観から解放されたのです。 おそらく私の
人生の中に於いて、正に宗教の修行の末実現されると言う「解脱」とでも言う
べき出来事であったと思っています。

スペインで暮らしていると、「時間の流れ」を感じる事ができます。 夜、ベ
ッドに入って寝る前にその日一日の出来事を回顧すると、実に日本で生活して
いる時の一週間分もの思い出がよみがえるのです。 一時一時、一日一日が充
実して長いのです。 日本でサラリーマンをしていると、「ハッと気がつくと
もう1週間たった」、と言う事が良くありますが、それは一度しかない人生を
ただ目をつぶって突っ走っているだけの様な気がします。

(次号へつづく)


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随時掲載記事コーナー:「読者のひろば/サポートホームページ掲示板」から
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まだ語学はこれからとおっしゃる関田さん、Russiantsuneさん。
学生時代の語学習得経験を思い出し、情熱が再燃しそうなFさん。
猪突猛進でいきなり韓国語に狂い始めた(笑)しんすけさん。
留学中のイタリアで出逢ったフィリピン人の素晴らしさを知り、アジアにも関
心を持たれているMiyaさん。
大学生の3倍のご年齢で中国語にチャレンジされているモネさん。
韓国語に向けて猛スピードでダッシュを切られた、れもんソーダさん。

皆さんが頑張られている姿と、そしてまた私のメルマガが少しでもお力になる
事を励みに、頑張って行きたいと思います。

ところで、読者の皆さんは何語にチャレンジされているんでしょうかね?
それが分かると、これからの色々なお話の際の参考になるのですが。 私の話
せる言語に限れば、色々とお役に立ちそうな物とか人とかご紹介ができるのに
と思っています。 日本語のおじょうずな知り合いの韓国人の朴成龍さんが掲
示板に出て来られましたので、韓国語を志して折られる方はぜひコンタクトを
されてみたらいいかと思います。

韓国語ついでに、今何故か日本で空前のブームになっている韓国ドラマ「冬の
ソナタ」ですが、とうとう韓国語−日本語対訳のシナリオ完全版が出ました。
すべてのお話(20話)の全シーンが一言余さず載っており、びっくりしまし
た。 韓国語の自然な口語を勉強するにはうってつけの教材です。 ある程度
基礎を学ばれた方が参考にされると、すごく実力がつくのではないかと思いま
す。 
「冬のソナタ」で始める韓国語 〜シナリオ対訳集〜
キネマ旬報社 A4版375ページにぎっしりと印刷されています。
(お値段は1900円です)
さっそくスタートした、サポートサイトの「語学グッズ」コーナーに出せれば
いいのですが残念。(笑)

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