9.SNSの危うさ 08/19/2021

私は巷に飛び交う「SNS」と言う言葉に辟易としている。

TVのニュース番組でさえ「SNSの投稿によると~」「SNSでの再生回数から~万回」とその単語を聞かない日はない。 SNSと言えば、トゥイッター、フェイスブック、インスタグラム、ライン、ユーチューブなど各種存在している。

それぞれに特徴と特性があり、一様に論じることはできないが、一番私が拒絶感を持っているのは発信者の素性がはっきり見えない拡散系のものだ。 SNSに限らず例えばYAHOOのニュースなどに対する読者のコメント投稿などもそれに近いものがある。 一口で言って「無責任の言いたい放題の雑言」であり、姿を見せず発言に責任を持たない世界は相手にするだけでおぞましい。

もしかしたら相手は小学生かもしれない。 もしかしたら実際に見ることができたら一見で無視するような相手かもしれない。 最近の報道をみていると、何かSNSがひとつの社会的ステータスを獲得していて、ひとつの立派なご意見番として認められているようである。 飛んでもなくバカげた恐ろしい話だ。

一口にSNSと言ってもその中身は玉石混合であり、耳を傾けるべきものからゴミのようなものまで様々なのである。 ただ単純に声の大きい人の意見が通る、発言数の多い人の意見が通る、では困るのである。 他人の意見を聴く時は、その人となりを把握しながら頭の中で努めて客観的に消化しようとするものである。 なんでもかんでも飛び交っている言葉をそのままこちらの頭の中に放り込んで鵜呑みにするとしたらそれは乱暴の一言に尽きるだろう。

拡散系のSNSの中には付随する広告収入を狙った記事も沢山あり、収入の為に注目を集めるような偏った発信を続けている人も多い。 再生回数、読まれた回数が注目され、数が多いと「注目を集めているのだから真実だ」みたいなイメージが世の中に広がって行く。 なんとも情けない現象が蔓延している。

世はデジタル時代だし、ネット上で現実世界では不可能な範囲と速度で人と人のつながりを作って拡散していくのはまさに現在の人生ツールとして相応しいと考えている人も多いであろう。

私は55年間もアマチュア無線に親しみ世界中の同好の人たちとコミュニケーションをひろげて生きてきた人間だ。 数十年前、インターネットもない時代、アマチュア無線の持つ力は絶大だった。 家に居ながらにして世界中に親しい「声のお友達」ができて、あの時代アマチュア無線を本当に誇らしく自慢に思ったものである。

しかし、国内のアマチュア無線仲間であれ、海外のアマチュア無線仲間であれ、本当に深く中身のある交流ができたのは交信を重ねた後で実際に会う機会があって、相手の人柄を肌で感じ理解し合ってお付き合いをするようになった人達である。

IT時代になって、人と人との接触や交流を面倒くさがる若者も増えて来た。 コロナで強制された在宅勤務も苦にならない若者もいることだろう。

家でゲームマシンに向かって若いエネルギーを燃やす若者達があえて現実の世界を直視しなくても、ネット空間で演じられる議論や風評などの評価をそのまま受け入れていたとしてもそれほど不思議はない。 その意味でこのSNSに対する最近の社会の評価はIT化する人間社会の自然な反応なのかもしれない。

SNSが現代の便利なコミュニケーション・ツールであることは間違いがないが、これに対しては最大限の冷静さと謙虚さをもって接して行かなければならない、と私は強く思っている。 どんな便利なITツールがあったとしても、人と人は面と向かい合ってこそお互いを正しく理解できると言うことを決して忘れてはならない。