7.正義は何のために 07/13/2021

正義は勝つなんて言うと何か窮屈に聞こえるが、要は正しい価値観を持って物事にあたれば幸せにつながると言う事である。

そう言えば、今まで最後には正義は必ず勝つんだと信じて頑張って生きて来た。 そういう人は他にもたくさんいると思う。 人生色々選択しなければならない局面はあって、常にそこで働いたのは「どう生きるべきか?」と正義に照らす姿勢。 「正しく生きて行けばいつか必ず花が咲く」「不正義は最後には必ず破滅する」と考えたものだ。

しかし本当にそうであったろうか? この世の中は本当に正義に照らして正当に評価され、それがそのように結果につながっているのだろうか?

振り返ってみれば、世の中で正義に従って進んでいる物事なんてほとんどないではないか。 結局人間は欲望のかたまり。 人生は人間社会の中での欲望のぶつかり合いの連続。 生物の食物連鎖の頂点に立つことができたのは人間には知恵があったからだ。 しかしその知恵は同時に欲望をも生んだ。

もちろん人間以外の動物にも欲望はあるが、それは生きる為の行動に限られる。 人間は生命維持に何の不足がなくても欲望がすべて満たされることはない。 食欲・性欲が人間の欲望の最も原始的なものだ。 人間が生きる意欲をささえる基本的な欲望だ。 度を越して強引で我儘になれば犯罪につながるが、それらを社会的に監視し制御していくことは可能だ。

問題は支配欲だ。 ヒットラーもプーチンも習近平も金正恩も、背景となる確固たる思想が有るにせよ無いにせよ、詰まるところは「自分が思った通りに世の中を支配したい」と言う一番傲慢で暴力的な欲望だ。

振り返れば原始時代から常に支配者は存在した。 暴力で有無を言わさず支配するところは野獣と同じだが、野獣は生きる為に「必要最小限」で行うのに対し、人間社会の支配者は最大級の欲望を満たす為に最大数の人々が味わえる欲望の達成感を自分がすべて吸い上げて、欲望達成の「最大化」を図ろうとする点が異なる。 言い換えると、他人の分までいい思いをしようとする行動だ。

民族の為とか正しい主義の為とか人民の為とか理屈をつけて自分の欲望を正当化する。 極悪人が自らの欲望達成継続の為に無数の人々の自由を奪い、あるいは人々を弾圧・殺戮したりする事がまかり通っている世の中は、決して今始まったことではなく、原始時代から常に世の中は力で欲望をかざした人間に抑圧され支配されて来たのだ。 そう言った極悪人達が歴史の教科書の中では偉人として語られるのはまことに滑稽である。

今も昔も世の中の根本的な構造は何も変わっていないのだ。 やはり正義はもともとなかったのであろうか。

ひるがえって我々の目の前の政治家達に目をやると、市町村であろうと国であろうと何とレベルの低い名誉欲に飢えた人間たちが多い事か。 本当にそういった立場に立つべきで立つ能力のある人で、政治の世界に身を投じる人は極めて限られた一部でしかない。 だからと言って政治家にならず会社や研究機関で勤める道を選んだ人々も、それぞれの組織の中で繰り広げられる権力構造・支配構造の中で揉まれることになる。

人間は社会の中でしか生きて行けないが、その社会の中で決して平和に正義をかざして生きて行くことはできないように思える。 「いや、自分はこうやって正義を貫いて生きて来たんだ」と言える事が本当に価値あることなのか。 価値なんかないと言ったら、正義なんか捨てろと言うことになってしまうのでそうは言いたくない。

しかしそれにしては正義を標榜する人々には余りにも陽が当たらない。 「正義を必死に守った善良な人々が、正義も何もない欲望に飢えた支配者に喰いものにされている」、この有史以来の人間社会の構造を見るにつけ、正義とは善良な人々が支配者にどれだけ馬鹿を見させられても、支配者の為に生きて行くモチベーションを維持する為のモラルなのではないかとすら思ってしまう。

それでも正義は美しいと思える者だけが価値ある人間であって欲しい。