6.歴史と謙虚さ 07/09/2021

高等学校まで歴史の授業は決して楽しいものではなかったし、興味もそそられなかった。 済んだ過去の事を学ぶことよりこれから役に立つ現実的な事柄に興味があった。  英語、自然科学全般、数学などである。

ところが社会人となり関わる世界が広く深くなると、否が応でも歴史の知識が問われるようになった。 何で現在そうなっているのか。 その今を知るためには過去を知らなければ何もわからない。 だから歴史を知らない人間は現在も正しく認識できないと言うことに気が付いた。

飛んでもない歴史の誤解や無知があって、すんでのところで大恥をかくところであったなんて事もあった。 歴史を知らないと言うことは文化人として大変恥ずかしいことなのである。 どちらかがどちらかを傷つけるようなことが歴史上あった場合、被害を与えた方は年月の経過とともにその事実を忘れて行くとしても、被害を受けた方は決してそれを忘れないものである。

特に隣国、とりわけ中国と韓国とは深く永い歴史の上に現在の関係があり、しばしばその歴史認識をめぐって激論が交わされることもある。 そう、激論の対象になると言う事がその認識の大切さを物語っている。

歴史はどんな小さな出来事でも書き方ひとつ、どこに主体を置いて語るかによってストーリーはまるで変ってくる。 悪者と良い者が入れ替わる事すら簡単だ。 ましてやその当事者達が語るとしたら自分サイドに光を当てた話になるのは当たり前のことであろう。

歴史の教科書にある問題を記載するかどうかで問題になることが良くある。 それも教科書出版社によって姿勢が異なり、学校がどの教科書を選択するのかによって子供たちが学ぶ歴史が変わってくるのだ。 歴史を紐解いてもどかしいのは、何が正しいのか分からないことだ。

検証ができないのだ。 歴史を学者として多面的に検証し、実地調査や残された関係者からの事情聴取などありとあらゆる検証努力を重ねてこそ真実に近づくことができるのだろうが、我々が教科書や参考書パラパラとを読んだくらいでは何もわからない。

ネットにある情報もしかりで、そもそも思想が偏った団体が書いたものなどが五万とあるし、たまたま手にした情報で誤解してしまうのがオチであろう。 比較するのが相応しいかどうかわからないが、私は夫婦の関係を振り返ることと共通点がたくさんあるように感じる。

夫には夫の言い分、妻には妻の言い分があり、それらを平等に客観的に歴史として文章に落とすのはかなりむつかしい。 はっきりしているのは、どんな過去があったにせよ、現在の二人の関係があるのはすべて今までの歴史の中の過去があったからと言うことだ。 そこである特定の時期の二人の問題の是非の認識について議論しても余り意味はないだろう。

実際問題、夫が犯した過ち、妻が犯した過ちがあったとして、その歴史の上に現在の二人があるのだ。 良い事も悪いこともお互いに影響しあって歴史が積み重ねられ現在に至っているのである。 すべてに感謝して今のお互いを大事にするのが夫婦の歴史の流れであろう。 だから私は歴史には謙虚でありたいと考えている。

世界の国々の人々や文化に及ぼした日本の影響に考えが及んだ時、あるいは日本の文化を振り返り、世界の国々や人々や文化からどのような影響を受けて来たのかに考えた及んだ時、決して自らを奢らず、世界の国々や人々、文化の存在に敬意を払いたい、そしてそういった気持ちで接したいと考えている。