5.差別と区別 07/09/2021

最近「多様性を認める」と言う表現を良く耳にする。 代表的な例はLGBT(性的マイノリティ者)への対応である。 「自分の子供がLGBTだったらどう思うのか?」「社会的に差別されているのを快く思うか?」などと言われている。

こう言った事を主張している人の多くは「多様性を認める社会を目指そう!」と声を上げている。 私はこれに対しては大きな違和感を感じる。 そもそも論として「差別」と「区別」の区別がされていないではないか。

国際的にこの問題が広く取り上げられ、LGBTを特別扱いする事に対して猛烈な非難が繰り広げられている中、私の言葉への批判を覚悟で述べよう。 LGBTが当たり前の存在なら人類の種は存続していない訳で、明らかにLGBTは「異常」であるはずだ。 「異常」であるから正常とは「区別」するのは当然のことである。

ここで大切なのは、だからと言って「差別」はしてはならないと言う点だ。 LGBTは本人がなろうとしてそうなった訳でない。 正常者とは「区別」はするが社会的には守ってあげなくてはいけない。 つまり「差別」はしてならないのだ。

それを明確にしないで「多様性を認める」と言うのはいかにも乱暴な物事の括り方だ。 私には「なんでもOKそれで良い」と言っているのに等しく聞こえる。 そんな事を言ってたら、世の中のすべての物が多様性と言う言葉の下に許されることになってしまう。 

私の子供がLGBTだったら、私は子供を間違いなく他の正常者とは区別して捉えるだろう。 その上で最大限幸せに生きて行けるように手を尽くすと思う。他の正常者と同一に扱って欲しいとも扱おうとも思わないだろう。

間違っているものを間違っていると言わないのは間違っている。 客観的で理性的な「事実認識」と人間としての「思いやり」は別である、そしてその両方とも人間には求められていると思う。

LGBTの問題は実はほんの一例である。 世の中にはこのような「差別」と「区別」が区別されていないものが他にもたくさんあるのだ。 良い例が「男女差別」だ。

男も女も何でも同じでなければそれは差別だと声を上げているのはおかしい。 字を書いたって男の字と女の字は違う。 幼児の時から女の子と男の子は行動に明らかな差がある。 親の教育とか取扱いが影響する以前からである。 緊急事態が起きた時に金切り声で悲鳴を上げるのは女である。 美しく着飾って化粧をしたいのは女である。

もちろんどこの世界にも例外はいる。 また未開な地域の限られた部族では男女の特徴が入れ替わっている例もある。 しかしとにかく区別があるのである。 問題なのは社会の中で法的権利が異なると言う状態でこれは差別である。

喫緊の例で言えばコロナワクチンを受けていない者に対する「差別」を問題視する発言もそのひとつである。 ワクチンを受けていない者にとっては面白くないので「差別」と言って批判するのだろうが、ワクチンを受けた者にとっては、受けていない人は一応要注意したいと思うのは当然であり、その意味で「区別」したいと思うのも当然である。

ただワクチンを受けていない人が(犯罪を犯したわけでもないのに)社会的に制裁を受けたり特権を失うような「差別」を受けないように配慮しなければならないと言うことだ。