4.弱肉強食と善悪 07/09/2021

近年の研究によって生命が宇宙から小惑星や彗星などによって運ばれて来たアミノ酸が原始地球に衝突して誕生したと言われる。 地球には海や湖に水があり、その中でアミノ酸は細胞を作り生命を誕生させた。 単細胞生物はやがて細胞分裂を繰り返し、より高等な多細胞生物に進化する。 最初はアメーバだったものが色々な器官を持った生物へと進化したのだ。

この微生物の世界で最初に繰り広げられたのはより大きな微生物が小さな微生物を捕食すると言う「弱肉強食」であった。この「弱肉強食」の連鎖は生物を次々とより巨大なものに進化させた。 アフリカの草原で繰り広げられる動物たちの闘いは弱肉強食の代表として語られる。

さてこの食物連鎖の頂点に立つのは言うまでもなく人間である。 身体の大きさは巨大な象やキリンには及ばなくても知恵を持った人間はより大きく強い動物すら食の対象としてこの地球上に君臨する事になった。

菜食主義者がいる。 自分は命ある物は食べないと言う。 しかし彼らが食べる植物とて生き物である。  動物と植物の違いは、植物は空気中の二酸化炭素と土中の水と太陽の光で光合成を行い、栄養素のデンプンを作り自分の力だけで生きて行けるが、動物は自分の力だけで栄養素を作ることはできず、植物を食べるか他の動物を食べなければならない点にある。

また、植物は自分で生きて行けるので大地に根をしっかり張って体をささえ水を吸収しようとするが、動物は「狩り」をしなければならないので足やひれや羽があり動くのだ。 どちらも生き物なのである。

菜食主義者とて他の生物を食べて生きているのだ。 動物は植物と違って食物連鎖の中でしか生きていけないとてつもない野蛮な生き物なのである。 そして我々人間はその頂点に立っている存在なのだ。感謝の気持ちをいくら沢山持っていても、やっている野蛮なことに変わりはない。 生きて行くためには仕方ないと言う理屈は誠に正しいが、だから野蛮でないことの理由にはならない。

人間は知恵がある故に体力では最強ではないが食物連鎖の頂点に立つことができた。 そしてその知恵がある故に宗教で神と言う概念を産み出し感謝の気持ちを尊いものとした。 そうやって自らの野蛮さをカムフラージュしたのだ。

仏教には有名な五戒があって、その一番は不殺生戒(殺さない)だ。 そのあとに不偸盗戒(盗まない)、不邪淫戒(不道徳な男女関係はしない)、不妄語戒(嘘をつかない)、不飲酒戒(酒を飲まない)と続くのだが何の意味があるのだろう。 もっとも仏教では植物には心がないので生き物とみなしていないからこう言う考えが存在する。

植物には心がないから生き物ではないとするのは如何にも宗教的な論理である。 しかしそこにこのカムフラージュのからくりがある。

人間は生き物を殺さなければ決して生きていけないのだ。 道徳とか愛とか、人生に美しい言葉はたくさんある。 善とみなされる行いは無数に存在し、胸打つもの心打つものも多数存在する。 美しい生きざま、輝かしい生きざまも存在する。

しかしどんな「人間的」と表現される立派な生き方をしても、我々はもっとも「非人間的」な生物界を食い物にしている野蛮な存在で数えきれないほどの沢山の小さな命を奪ってきたからできていることだと言うことを、近年良く考えるようになった。 人間社会の中では美しいことであっても、世の中全体で見たらそれは欺瞞である。

人間は社会にルールを作り、それに違反した人間を犯罪者として処罰する。 人を殺せば死刑もあり得る。 それまでに無数の生命を絶ち、食して来ているのにそれは罪に問われないのだ。 全宇宙的に見たら、地球と言う星の上でさらしているなんとも滑稽で自分勝手な人間の姿だ。

「命を捧げてくれた生き物たちに感謝すればそれで良い」とはできない自分がここにいる。 人間の存在自体が悪ならば、その人間が為すことに対して善悪を論じるのは滑稽だ。 極悪人同士が集まって、お互いに「お前は一番の悪人だ」と小さな罪を着せ合っているようなものだ。

結局人間社会の善悪とはその社会のルールに過ぎないと言う事だ。 「絶対的」な善悪ではないのだ。 なんとも悲しいが、そういう結論になる。