1.振り返ればすべては刹那の連続だった 06/24/2021

世の中は常に変化している。 世界中のすべての場所で常に変化している。 だから年月が経ったら記憶の中にあるものは例外なくもう無くなっている。 素晴らしい想い出も懐かしい空気も すべてはあの時だけのひと時のものであった。

人生は短い。若い時はまだ無限に時間があるように感じるが、いつの間にか残り年数がいくらもないことに気が付いて愕然とする。

何のために生きて来たのか。 何をすべきだったのか。 何をして来たのか。 それで良かったのか。

もう一度繰り返すこともできないし意味もない。 その瞬間の短い歴史の流れに自分が乗っていただけだから。 いいも悪いもない。 過ぎ去れば流れて消えていく。 よほどの偉人でない限りやがてすべての人にその歴史は忘れ去られて行く。

昔あれだけ自分を高揚させすべての犠牲を許容した1985年のスペインも 32年後に再び訪れたらその片鱗すらなかった。 自分を心躍らせたフィジーも ミャンマーもパラオも 東南アジアの国々も おそらく今はもう無いのだ。 すべてはその場限り。 その瞬間の姿。 後にも先にも移動できない。 その場限りの刹那の足跡。

すべてがスチル写真だ。 パチリと撮った感激の世界。 何年たって見ても同じように見えるが実際にはもう存在していないのだ。 人生とは心のアルバムにどれだけ感動的な写真を飾ることができるかなのかもしれない。

歴史を振り返ると、わずか数十年の命をどの時代に何処で得たかによって、虫けらのように扱われて簡単に踏みつけられて命を落とした人のどれだけ多い事か。 民主主義なんて人類の歴史の流れの中では極々最近の まだ瞬間ほどしかないもので、弱肉強食の暴力や専制時代を生きて来た人の生きざまがどれほど惨めであったか。

近代になっても世界大戦で将棋の駒のように打たれて次々に命を落としたり、大量虐殺で有無を言わず命を落とされたり、およそ平和に天寿を全うすることの稀有さと難しさよ。

中国が恥知らずの限りを尽くして世の平和をかき乱そうと、人類の歴史に点を超えた大きな汚点を残そうと、それは今のこの瞬間のこの時のできごと。 昔はなかったが今はある。 この先何があるかは分からない。

今、中国の恥を知らない自分勝手な理屈と行動が世界の平和を揺るがすも驚くに値しない。 人類は今までもそう歴史を刻んできたし、これからもそれが人類が足跡を刻む道だ。 怒りを感じる理不尽な行動も、今自分が同じ時代に生きているからだ。 こんなものは気まぐれな人生の巡りあわせだから、一喜一憂してもまったく意味がない。

人生がそんなに刹那的なものなら、何をしても自分が快感を得られる生き方をすればいいと考える人も多い。 犯罪を犯すのは論外であるが、組織の中でどんなに醜い姿であろうと、部下を踏み台にして上司にへつらう人間が出世する保守的な組織も多い。 

美しく生きるより上に立って威張りたいのだ。 人間は所詮動物だと思うか、人間は動物ではないと思うかが分かれ目だ。 言い換えれば、自分自身が欲望だけで生きている動物に過ぎないのか、豊かな感情が支配する文化的社会を生きている人間なのか、自分が決められるのだ。

やがてこの世の中も自分には見えなくなる。 自分の子供達がそれを引き継いで、そのまた子供たちがそれをいずれ引き継ぐ。 私の偉大な父が消えていったように、私もいずれ消えて去る。父でさえあれだけすぐに消え去ってしまったのだから、私なら瞬間に綺麗に消え去るだろう。

自分が残せるものは何だろう。 遺品の多くは「買った」ものでそれらは「自分」が残したものではない。 こう言った文章や、つたない映像作品や、作った機械もやがてはゴミ箱へと消えていく。 大偉人にならない限り、すべてはこの世から消え去って行くのだ。

子供を持てた事は幸せなことだったと思う。 自分の生きた血をつなげた子供たちの命。 子供たちがその営みを続けていく限り、この足跡は永遠に続いていく。 私が人類の歴史の中に残せる唯一のものとなるに違いない。