miyaのベネチアレポート
20:フェニーチェ劇場のコンサート
11月28日日曜日、ベネチアを代表するフェニーチェ劇場へ行きました。
同居人が無料チケットを手に入れたので、彼女の友達と、もう一人の同居人と一緒に誘ってくれました。

フェニーチェ劇場は1996年の2月に火事で焼失し、再建が不可能ではないかともいわれたのですが、去年の12月に無事に修復が終了し再開されました。
焼失前は、イタリアでも1,2を争うほど美しいと言われていた劇場なのですが、いったいどんな風に修復されたのかも興味があり、喜んでコンサートに行きました。

その日行われたコンサートは、ピアノのコンクールで、土曜日に5人のピアニストが演奏し、そのうち2人だけが日曜日の優勝者を決めるコンサートに出場できるという、とても厳しくて権威のあるものでした。
パンフレットを見ると、決勝に進出した二人はとても若く、最初のピアニストは1985年生まれ、という事は19歳!二人めも1982年生まれで22歳で、どんな演奏を聴かせてくれるのか、とても楽しみでした。

そして劇場にたどり着くと、夕方8時から始 まるのに、7時過ぎにはたくさんの人でいっぱいでした。私たちは一階ステージのすぐ横の席につき、幸運な事にピアニストと3メートルも離れていなく、間近で演奏を観る事ができました。

劇場は、すべてが新しく、過剰なくらい華やかに装飾されていて、まるで別世界!しかし、新しすぎて、まるで偽物のプラスチック製のようにも見えました。
聞くところによると、焼失した当時のようには修復されなかったそうで、1700年代の様式が選ばれたそうです。焼失以前を知っている人は、色が軽々しいくらい鮮やかすぎると言っていましたが、300年前はこんな風だったんだと思うと、遠い過去にロマンチックな感傷を抱かせられます。

そしてコンサートが始まり、最初のピアニストが演奏を始めました。どうも音が軽く、一曲目はショパンだったのですが、そのショパンにしても軽すぎるくらいでした。二曲目は、F.リスト作曲のとても難解な長い曲で、「ピアノの楽器職人という仕事もステキだなー」など関係のない事を考えながら聴いていました。しかし、19歳と言う若さで、 この難解な曲を弾きこなすなんて、それには脱帽、私だったら20年かかっても不可能です。

そして、二人目のピアニスト、一人目でちょっと飽きてたのに、そんな気分を吹っ飛ばしてくれました。ピアノを替えたのかと思うほど音に身が入り、歌うように演奏して、すっかり音楽の世界に入り込んでしまいました。それに、私の大好きな作曲家ラフマニノフを演奏し、二曲目もF.リストのハンガリーラプソディーで、こういう民族音楽系が好きなので、いっそうすばらしく感じ、演奏が終わるのが残念なくらいでした。

そして二人の演奏が終わり、選考会議中、観客にスパークリングワインが大広間で振る舞われました。しかしまたこの大広間も天井が高く、豪華でかつ清潔な装飾がされ、内装にも見とれてしまいます。

さて、私たち一行は、誰が優勝するかと話し始めました。同居人は前日の土曜日のコンクールも観ていて、最初のピアニストが決勝に残るとは思わなかったけど、今日の演奏は技術的にもすばらしくて、きっと彼が優勝するわよと言っていました。 そして、周りが「楽譜をもとに再現するという事はアートなのか云々」と討論を始めたので(同居人二人は哲学専攻)そんな難しい話題には入れず、ぼんやりと考えていました。

結局、優勝したのは二人目のピアニストで、会場中が大きな拍手で祝福し、若きピアニストたちに奨学金の目録やトロフィーなどが渡されました。意外だったのは、出場者5人全員に携帯電話とノート型パソコン(音楽のプログラム付き)が送られた事で、現代的だなと思いました。

すばらしいコンサートだったので、私たちは、ちょっと興奮しながら外へ出て、何か一杯飲もうよという事になりました。同居人の友達が仕事をしている男性だったので、「僕がおごるよ」と、劇場のすぐ横の有名なレストランAntico Martini(アンティーコ マルティーニ)へ入りました。「僕は二回ほど来た事があるから」と言っていましたが、いつの事だったのか、中に入った私たちはメニューの値段を見て固まってしまいました。一番安いコカコーラでも9ユーロ(1260円)!!!いったい何を注文できるのでしょうか?とりあえず一杯だけ飲んで、そそくさと出ました。

すると、ちょうど劇場からピアニストたちが出てきました。「わぁ!ピアニストたちだ!」と言うと、彼らも気さくに答えてくれました。そして、私たちはピアニストたちと話す事ができたのです!優勝を逃した一人目の演奏者は、「表彰の時、ちょっと不服そうだったね」と聞かれて、「優勝できなかったのは残念だったけど、でも、ここまで来れて嬉しかったよ。ピアノの先生?ファンタスティックな人だよ」「奨学金はピアノの授業だけにしか使えないの?」「いや、車を買っても旅行してもそれはいいんだけど、まあ、ピアノに使うね。」「これを機に、この辺りを本拠にコンサートするんでしょう?楽しみね!がんばってね!」「ありがとう!」とてもステキな笑顔で答えてくれました。

そして、ピアニストたちと別れた後、私たちの家が近くだったので、うちでお茶でもしましょうという事になりました。
お茶を沸かして、4人でおしゃべりしていたら、アパートの責任者でもある同居人がインドに行った事があるという話題になりました。それから意外な話を聞く事になりました。

「9歳の時にインドへ行ったのよ」
「どうして?親の仕事で行ったの?」
「うちの母親が変わった人でね、、、インド舞踊を習いに行ったのよ」

彼女はスイス人なのですが、母親はチェコから亡命してきた人で、ロシア美術担当の教師だったそうです。
このインド旅行、7月に行ったそうなのですが、インド舞踊の先生がバカンスへ行ったため、結局、習う事ができず、もう一人一緒に連れて行かれた姉はマラリアにかかり、ホテルを探すために乗ったタクシーの運転手が目の前で警察に逮捕され(きっと、彼女たちを誘拐しようとしたんじゃないかとのことでした)、さんざんなめにあったそうでした。
しかし、インドで飲んだ紅茶チャイは、甘くおいしくて、その味は忘れられないと言っていました。

しかし、母親が亡命者というのは、海外ではよくある事なのでしょうか。
さすがヨーロッパ、いろんな国があるもんだと思いました。
その母親は、国に帰れば逮捕され、2年間も牢獄に入れられるので、両親が死んだ時も帰る事ができなかったそうです。
人が自由に行き来できないなんて、日本でヌクヌクと育った私には一昔前の話のように聞こえますが、今もそういう国はあるし、そういう暗い部分も世界の現実の一部だと身近に思いました。

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