昭和42年生まれ(37歳)男性 埼玉県在住
現在福祉関係勤務 専門性を磨き将来、海外に出ることを懲りもせずもくろんでいる。 また、社会福祉士の中年受験生でもある
独身20代半ばには、いい縁談話もあったが、協力隊参加という目標があったため婚期が遅れている。 電気関係の分野からは、協力隊という目標が達成できたので今は趣味として楽しんでいる。
アマチュア無線は海外に出るための原動力である。 高校一年生の時から初め、飽きもせず現在まで続いている。名前の所に書いてある(5H3HMとは、タンザニアでもらったコールサイン)です。 帰国後、一度だけタンザニアのボーイスカウトの局とスワヒリ語で交信できた。いまは、週末に英語圏の局と会話?を楽しむ。 合気道―以前は、空手もやっていたが、いかんせん虚弱体質の体形の上、年齢もそれなりになってきたので、今は老若男女楽しめる合気道にスイッチした。あくまでも、健康のためであり、気負ってやっているわけではない。 クラシックギター―音楽が別段好きということではなく、能の活性化(ボケ防止)のために先を鍛えているようなもの。 将来、中南米にいけたら、美人の先生に教わりたいな〜。 以上が私の趣味です。 その他も、やりたいことはたくさんありますが、手とお金が足りません。 仕事のモチベーションを維持するのに趣味は大切ですね!!
アフリカの大地を踏みしめるまでかなりの年月を要しました。 そのため、タンザニアの話題までたどり着くまで、いろいろな横道にもそれると思います。 時間がある方は、読んでみて下さい。
中学生の頃は、オートバイに興味があり月間誌であるオートバイ・モーターサイクリストなどを熟読していた。 あるひ、親戚のお兄さんがバイクで本家にきたのでさっそく見に行くとバイクの後ろに奇妙なアンテナがついていた。 話を聞くとなにやら、これで遠くの人と話ができるというではないか。 この時は、なにかおもしろそうだな〜ぐらいで終わってしまった。その後中学3年になり、進路を考えることなるが、目標も定まらず勉強もあまりしたくはなかったので、担任のすすめた普通科の高校も断り工業高校の電気科へ推薦で行くこととなった。 学校へ毎日通うようになり、ある時屋上に変なアンテナが上がっていることに気が付いた。いろいろ周りの人に聞いているうちにそのアンテナはある科の、先生のものでオーストラリアの人と時間を決めて交信しているということがわかった。 このとき、親戚の兄貴のバイクについていたアンテナが記憶によみがえり、免許取得へと繋がっていった。 当時は、真空管のトランシーバーがまだ売られており、真夏でも大汗をかきながら外国から飛んでくる電波を聞いていた。そのころのハム(アマチュア無線)のバイブル的な本には、コールサインは世界で一つのものでアマチュア局は、日本の親善大使のようなものとうたっていた。 インターネットも無い時代それらの文句は、否応なしにロマンをかき立てていた。 最初の頃は、簡単なやり取りの交信で満足していたが、だんだんと消化不良ぎみになってきて、とにかく外国に行けば英語力もつくだろうと考えるようになった。残念ながら、英語に関しては今もって解決していない。
高校も、低空飛行でどうにか卒業し就職することとなる。が、一年も過ぎた頃からかむしょうに、海外へ出たいという欲求が高まってしまった。海外には、まとまった休みもいるため、学生という既成事実をつくるため、受験勉強と外国の情報収集に没頭していった。そんなこんなしているうち、某大学の政経学部の2部にもぐりこみ、バイクいじりとオーストラリアのロ―ドマップをにらめっこしていた。就職して、4年が経過し卒業までの学費と生活費おまけに旅費まで稼いでしまったので、公務員生活ともはれてお別れとなった。しかし、毎月の5万円定期貯金は、ちりも積もればというやつでした。学生生活も最後の年になり、ついにオーストラリアへと飛び立つこととなった。傍らには、ぼろぼろの地球の歩き方をかかえ、カンタスエアーのなかでは、金髪スチュワーデスのきれいなこと、コーヒーの注文に毎回舌をかんでいました。爆走オーストラリア1万キロとでも題して、いろいろ書きたいのですが、なにせ十三・四年前のことなので、記憶がかなりラフとなったのではしょります。概要は、このころは、オトキチ(オートバイキチガイ)だったので、パリダカにあこがれており、バイクでストックルートという未舗装の内陸の道を通り、大陸の横断をしました。楽しかったのですが、いまひとつ完全燃焼できませんでした。理由は、スピードが速すぎて自分本来のペースでなかったと思います。しかし、この時見た、バオバブの木は、やがてアフリカで見ることとなるバオバブにつながったという、因果関係があったのです。
オーストリアから帰り、今ひとつ煮え切らない日々を送っていた。 その後、大学卒業までにアメリカのロスの郊外にある、オープンエリア(砂漠の中に設けた、モータサイクル専用のプイエリア)を何日か、全開でかっ飛ばしたりもしたが、なにか体の中のエネルギーが消化しきれずにいた。 そんなある日、何かの雑誌で、協力隊のことを知りとりあえず資料請求をしてみた。 応募条件等を、みると高校在学中に取得した強電関係のライセンスで、OKとなっていたが、よくよく見ると技術指導とある。ペイパーライセンスの自分では、役不足ということもわかったが、なんとしても2年の海外生活ができる魅力は、捨てがたかった。 というわけで、卒業後、迷わず電気の設計施工会社に入社してしまった。
というわけで、迷いも無く電気の業界に入ったが、右も左もわからない状態が続く。 とにかく最初の一年半ほどは、ご高齢のベテラン職人について屋内配線からマンションの配管打ち込み、はたまたエフレックス(電線管のごついやつ)の埋設のための穴掘りと重い、腰道具を身につけ、くる日もくる日も作業着を汗で汚していた。その後、やっと設計部門からも声がかかるようになり、昔使った設計図グッズが役立つ日がやってきた。 そうこうしているうち、ゼネコンのK社へ、電気要員として出向が決まり、2年間の千葉県生活が始まった。 現場は、某社発注の海底トンネルで、シールドマシンというもぐらみたいな機械で、掘り進んでいくものだ。 仕事は、現場の電気設備全般を担当していた。 とにかく、忙しい日が続き、定時はいつも夜の10時ぐらいだったか。 ただ救われたのは、まわりの技術者に同年代がおおく、よくばかばなしをして盛り上がっていたことだろうか。 そんななかでも、たまになんともいえないやるせなさに襲われることがあったが、そんな時は、いつもキュービクル(高圧の受電盤)のところで、ボーっと空を見上げ、頻繁に行き来する国際線の飛行機眺めていた。 心のなかでは、機上の人となった自分を想像し励ましていたものだ。
月日のたつのは早く、27歳の誕生日を迎えることとなってしまった。 発展途上国は、体力的にも厳しいことが予測されていたので、できれば20代の内にいきたいと前前から思っていた。 この1・2年の間、幼稚園の先生やら・なんだかんだと今考えると、逃した獲物は大きい状態の見合い話が、何件かあったが即答で断っていた。(失敗した!?) そしてついに、一次試験を受けることとなる、英語は無線のからみも有り好きなので問題なくパス、二次試験も技術系の面接に関しては、現場での経験が効いたのかその場で、タンザニアで要請があるがいける?ときかれ、すぐさま「行かせて下さい」と答えてしまった。 本音の部分では、この時の要請では、中米(ホンジェラス・コスタリカ)も出ており、気持ちはそちらに飛んでいたがしかたない。 かなり手ごたえを感じ、結果を待っていると予想通り合格であった。 本来であれば、即仕事を辞め(社長に入社時、協力隊に行きたいので修行させて下さいと言ってあった)派遣前、訓練に突入するわけであったが、この時は、トンネル工事の電気担当であったので、しぶしぶ1年の派遣延長を申請した。 まあ、これはこれで良かったのかもしれない。 3kmぐらいの海底トンネルが、貫通した時の感動は、4年間の修行の苦労も吹き飛ばしてくれたのだから。 こうして、計画通りどうにか28歳の時、福島県の安達太良山中腹にある訓練所に潜り込んだのだった。
ヤットコサットコ身の周りの整理も終わり、福島の二本松駅に降り立つことができたのが、1995年の1月だった。 訓練所まで上がってくると、雪がちらつき、この後寒さとの戦いが3ヶ月続くこととなる。 まだ、できたばっかりの施設で、部屋の中は塗装の臭いに満ちていた。 環境は、抜群で周りは深い原生林に囲まれている所だった。 夏に来て、下界の暑さをしのぐには最適かもしれない。 三ヶ月間みっちり語学訓練と任国事情・保健衛生・基礎体力作りと忙しイスケジュールをこなしていた。 この間は同時に、期待と不安が入り混じって微妙な心境でもあった。 周りは、同年代が多かったが、これといった出会いもなく(予想通り)着実にスケジュールをこなす日が続いた。 そしてどうにか、訓練も終わり憧れの成田エアポートにたどり着いたのが、28歳と一ヶ月の時であった。 なんともいえない歓喜を胸にブリティシュエアーの狭いエコノミーの座席へ向かったのだ。
23歳にして協力隊を目指し、ついにその目的がかなう時がきた。 イギリスのヒースローを経由しケニアのナイロビで給油その後、やっとダル・エス・サラームの空港に降り立った。 タラップを降りる時感じたのが、台湾の空気と似ていることだった。 電気屋をしている時、台湾のンネル工事の現場見学で一週間ほど滞在したが、その時の臭いと何か共通していると感覚的に感じた。 南国特有の、湿気に混じったあやし香りが、なんともいえない心地よさであった。 その後、ひと月も立たぬ間に大変痛い目にあうとは誰が想像していただろうか。 タンザニアまでの長い道のりと題しましたが、年数はそれなりにかかりましたが、話はくどくならないように、だいぶはしょりました。 日本での、経過を聞いても面白くないでしょう。 タンザニアの生活では、日本では考えられないようなことがたくさんありました。 これから、書く内容は、いちよう時の経過にそって書いていきますが、思い出したネタも出てくると思いますので、多少ときが前後するかもしれません。 ショートストリー的に、つづってゆきたいとおもいます。 Aya
bada ya tutaonana tena!
ついにタンザニアの空港に降り立つことができたはいいが、すぐさま現実を見せつけされることとなる。 まずは、タラップも降りたので、用足しへと向かうが、あまりの汚さに一瞬かたまってしまった。 汚物は流してないは、流そうと思っても水は流れないわでお手上げです。 これが、タンザニアを代表する国際空港の現実でした。 しかし、人間の順応機能とは、すごいもので、当初はかなり拒否反応を示していたからだが、数ヶ月後は、何も感じないようになっていました。 タンザニアの政府関係のお偉いさんへの挨拶も済んだので、赴任先に直ぐいけると思ったら大間違いで、2週間の語学訓練、任国内旅行が終わるまで行けないということでした。 そのため、ついて早々今度は、ダラエスを少し北上した海岸線の町、バガモヨというところに出発となった。 この名前の由来は、悲しい出来事(むかし、アラブの商人が奴隷貿易のためこの地からたくさんの黒人を輸出していたということで、詳しいことは忘れたが、からだはこの地に帰れなくても、せめて「心・魂」だけは帰ってくぞ)というような意味からきているとだれかが言っていた。 夕食後、一人海岸線を歩きながらインド洋を眺めているとはるかかなたへとつづいている日本と、遠い過去の出来事がリンクし、なんともいえない感傷にひたるのだった。 が宿舎へ帰ると、こんなこともすぐさま忘れシャワーを浴び、丁寧に足の指と爪の間を洗うのだった。現地の隊員の話では、寄生虫だかなんだかの虫が、砂浜の中にいて、そいつが指先につくと、爪の間から肉を食い破り指の中に入ってくるそうだ。 そいつの名前は忘れてしまったがこのあとも、虫ネタはたくさんあるが、本当にやばい昆虫がたくさんいるところだ。
虫で、いちばん神経を使ったのが、なんといっても蚊だ。 ハマダラ蚊というのが、どうもくせ者のようで、こいつがマラリア原虫を媒介するらしい。 昼間は、見かけないが夕暮れ時ともなると、活発に飛び始める。 予防としての、テクニックは忠実に守っていた。 神経質なわたしは、暑いにもかかわらず長袖シャツにジャージで、夜は早々に蚊帳の中に逃げ込んでいた。 ベテラン隊員に言わせると、マラリヤの一度や二度は、あたりまえなってやっと、一人前だと豪語していた。 そんなことには、わき目もふらずひたすら守りに入っていた。 タンザニアも広いので、場所によってはマラリア蚊の心配のないところもある。 しかし、ここは海岸線のマラリア汚染地帯の最前線だ。マラリアの予防薬もしっかり飲み、どうにか今回は切り抜けた。 体力が落ちている時も、発症しやすいということだ。 しかし、連日の湿気と暑さの熱帯の気候に体がついていけずなんともいえないだるさだ。夜の寝つきも悪く、悶々としながら天井のいもりだかやもりだかの、数を数える日が続いていた。そして、恐ろしい日がついに・・・・
熱帯の暑さの中で、続くく語学訓練も中盤を迎えようとしていた。が、ついにきました。 いつものように、寝苦しい夜、蚊帳の中から天井のやもりだかいもりだかを数えていると、通常であれば、そのまま眠りについていたのであるが、今日はなんだか変だ。眠らなくちゃと思うど、眠れないので(よくあるパターン)開き直り、別に寝なくてもいいやと言いきかせるが(本心は眠りたい)何かに見抜かれているかのごとく、ますます頭がさえてしまう。 その後は、でたな妖怪・七変化、突然強い不安に襲われる。なにか、この暗黒のアフリカ(何かの本のタイトルにあった)から、二度と抜け出せず、日本へ帰れないのではというような。 世界でも最先端の医療技術をもつ国で育った私にとって、病気の蔓延する別世界にきてしまったことのストレス・うんざりするほど油コイ食事(米とおしんこが食べて−)・言葉の障害・熱帯性の気候環境変化が重くのしかかったことが要因か? なにか、狭い所に閉じ込められ、そこから抜けだせないような閉塞感だ。 この感覚、以前オーストラリアでも経験しており、少しは予想もしていた。 その時は、二晩位でおさまったが、今回は滞在期間も長くなかなか手ごわい。 本来であれば、腕立て伏せや・運動でからだを疲れさせたいが、蚊帳の外はハマダラの天下である。 うかつには、出られず5日ぐらい強大なプレッシャーとの戦いが続き、本当に疲れきってしまいその後は、自然に眠れるようになった(諦めの境地にたっしたか?!)。 ということで、訓練も終わり、悪路に揺られダレス(ダル・エス・サラーム)へむかった。 トホホ・・・
しかしなんという暑さだ。これが熱帯性の気候なのか、中学生の頃たしか地理の教科書で習ったと思うが、まさか自分が体験するとは想像もしていなかった。 連日の、うだる暑さの中ここマンテップ(主に外国人が利用するスワヒリ語の学習施設)で、2週間過ごすこととなった。 日本での語学訓練の時は、タンザニア人の先生がかなり日本語も話すことができたため、学習はしやすかったが、ここでは英語かスワヒリ語しか通じない。 タンザニアにおいては、高校(セカンダリー)の授業は、ほとんど英語を使うため、高卒以上の人の英語力は非常に優れている。 ただし、途上国であるためセカンダリーに進学する(できる)人もまた非常に少ない。 ということで、授業に関しては日本の訓練所での基礎知識と中途半端な英語力を駆使して、挑むこととなった。 最初の二三日は、緊張もありかなり集中できていたが、その後は、暑さも手伝いひたすら睡眠学習を繰り返すこととなった。 また、後半の一週間は例(ホームシックシンドローム)のことも有り、ほとんど眠れていなかったので、さらに拍車をかけることとなった。
そもそも、勉強は好きなほうではないので、なかなか気もはいらない。 座学というより、現場で体を使っていろいろなことを習得し、その過程の中で興味を持たないと熱くなれないのが私の特徴かもしれない。 ここでの生活も、ほとんど日本人のコーディネターさんがお膳立てしてくれたものなので、生活上スワヒリ語が使えないと生きていけないということもないので、なかなか本腰が入らず、惰性で授業に出席していたのかもしれない。 ただ、この二週間、私のスワヒリ語がいくぶんでも上達していたとしたら、それは村の子供たちの存在があったからだ。 夕方、授業が終わるとよく村のなかを散策していたが、きまって近所の子供らが近寄ってきてMjapani(日本人)か、名前はなんだと始まり、ああでもない・こうでもないとエンドレスな話が始まるのが、常だった。 幼児レベルのスワヒリ語に、飽きもせず付きあってくれ(むこうも暇を持て余している)時には、家まで連れていかれマンダジ(揚げすぎた春雨のような)をご馳走されたりした。 スワ・和のポケット辞典(3000語)を、いつも持っていたが、まだこの時点ではページを開くことも少なかった。 この研修期間、スワヒリ語はまだまだはなしていて楽しいということは全くなく、むしろ苦痛でした。
ここマンテップの正門の直ぐ横には、大きなキリスト教の教会が鎮座していた。 古いたたずまいのこの協会は、相当古くからここにあるような、なんともいえない威厳すら感じる。 村人の半数以上はキリスト教徒で残りはイスラム教徒という割合らしい。 日曜日ともなると、着飾った村人やおめかしした子供たちが集まり賛美歌?を合唱していた。 あまり、これといった娯楽もないので、楽しみのひとつになっているようだ。 いつものように、夕方海岸への道を歩いていると大きな敷地の一軒家の軒先で一人しずかに本を読む青年がいた。 年のころにすると、30歳前後(子供たちの情報によると、フランスからきた宣教師らしい)ぐらいに感じる。 故郷から遠く離れた異国の地へきているかと思うと何か同じような境遇ではないかと、親しみを覚えてしまう。 こちらに気がついたので、すかさず手を上げ挨拶すると、彼も軽く手をあげたがすぐに本へ視線を落としてしまった。 なんというそつのない返事なんだ!? どうも、一方的な同情であったようだ。 海岸は、白い砂浜・海はエメラルドブルーと南国のパラダイスであるが、どうも昔の忌まわしい歴史(奴隷の積出港として栄えていた)を想像してしまい、よけい物悲しくなってしまった。 私の心は、哀愁のヨーロッパならぬ、哀愁のバガモヨだった。
悪路に揺られ、バガモヨをあととすることとなった。 二週間の研修であったが、後半はほとんど寝不足の状態で、かなり疲労困憊していた。 この辺は、はじめてタンザニアの名前をきいた時想像したような、熱帯特有の植物(バナナなど)がやたらと目に付くところだ。 しかし、よくよく地図を見ると、内陸部は標高もかなりありサバンナといわれるような草原が広がっていた。 わたしが、赴任する所はちょうどタンザニアの中心あたりに位置するコングワという国営牧場である。 規模もそれなりに大きく、この牧場だけでひとつの村が形成されている。 前隊員の資料だけでは、そのくらいしかわからなかった。 まあ、その前にひと仕事がダレスで待っていた。 日数は、よく覚えていないが、確か10日ぐらいであったと思う。 国内旅行を命ぜられる。 まあ、私にとってはスワヒリ語もままならない時だけに、度胸試しに行くような心境だった。
さて、どこに行こうかとまた、お得意の地球の歩き方の出番となる。 たしか、東アフリカ版であったか(タンザニア版はなかったと思う)、毎日ページをめくって思いをめぐらせていた。 こんなとこまでくるので、これを読んでおられる方はさぞフットワークのいいやつじゃないかとお思いであろうが、実はすこぶる腰の重い、小心者である。 しかしバイクに、またがると豹変してしまうが、普段は行動範囲も非常に狭い(今も、家と勤務先の往復がほとんど)くよく、タンザニアまではるばる来たものだと、われながら感心してしまう。 やはり、アマチュア無線で培った、海外に対するロマンと情熱であろう。 ということで、任地にいったらあまり動き回らないだろうという予想から、西の果てにあるキゴマを目指すことにした。ここは、世界でも3本指に入る(透明度・深さ)有名な湖のタンガニーカ湖というのがある。 また、ゴンベナショナルパークには、これまた世界的に有名なイギリスのチンパンジー研究家が、活躍していたフィールドだという。 まあ、この機会を逃したら行くこともないと思い、決定した。
行き先が決まったので、準備に入ることにした。 ダレスからキゴマまでは、TRC(TRFではない)タンザニアレイルウェイカンパニーで一本だ。しかし長いたびになりそうだ。 たしか車中箔が二泊ぐらいあったか。 距離も相当あったはずだ。 さっそく、ダラスの町に繰り出しキップの購入に駅に向かった。 街中までは、ダラダラという乗合バスが市民の足となっている。 名前とは違いかなりのスピードで走行し、とても安心して乗っていられない。 また、スリも多くとてもスリリングだ。(一度、腕時計を盗られたが、あまりの見事さに頭にこなかった) 一番笑えるのが、日本の中古車が多く、ボディーの横に、何とか建設とか、何々幼稚園とか書いてあるのが走り回っている。 昼前に、やっとつくが受付嬢いわく2時間後にきてくれという。 しょうがないのでその辺をぶらつき、こぎれいな店で昼食を取り街中の散策開始。 中国人による建築物が多く、高層の建物も増えてきている。 路上には、物乞いも多く日本の昔もこういう時期があったのかなーと物思いに耽ってしまう。 ぶらぶら、しない見物をしていると、時間もいいあんばいになったので、駅へ向かう。 キゴマまで、1等の客室下さい。 というと、先ほどの令嬢いわく、もう完売「明日きて」と投げ捨てるように言った。 怒りが込み上げたが、そこはジャパニーズ・ジェントルマン冷静に、「明日きます」とその場を去った。 なんという歯がゆさ。 思うに、スワヒリ語も幼児クラス・英語も中途半端、完全になめられた感じだ。 その日から、携行用スワ・和辞典が、酷使されるようになったのは言うまでもない。
一晩たち、頭もだいぶクールダウンされた。 再度、駅に切符購入のため行くことにした。 また、昨日の令嬢に合うだろうなと思っていたら、きょうは愛想の良さそうな好青年が、窓口にいるではないか。 わたしの、たどたどしきスワヒリ語もしっかり聞いてくれた。 1等寝台をお願いすると、すでにいっぱいで2等寝台だったらあるという。 3等だと本当の雑魚寝なのでそれよりはましと、直ぐにお願いする。 昨日とは打って変わって、丁寧な受け答えにすっかり気をよくし、協力隊員のドミトリー(地方隊員が首都に来たとき利用する宿泊所)に戻った。 ほんと、人それぞれの対応で、その国のイメージを変えてしまう(タンザニアも捨てたもんじゃねえなー)自分も自己中心的だよね。 外も熱いので、ドミトリーのベッドで地球の歩き方・辞書のページをめくりながら出発の時を待った。 時折、スコールのトタンを叩く音に起されつつも眠りの中へ落ちていった。 2日後、やっとその時がきた。 いざ出陣、キゴマへ向け!!
しかし、恐ろしい蒸し暑さだ。 2等寝台の部屋番号を確認しベッドに横になった。 傍らにはデイバッグがひとつ転がっている。 どういうわけか、昔からあまり物を身につけるのが好きではなく、今回も必要最低限の服と現金を腰に巻きつけているだけだ。 後から、紳士風のタンザニア人が二人はいってきた。 現地の人にとっては、2等でも利用するのが大変なので、この人たちはお金持ちだろうな−と、勝手に想像していた。 旅はみちずれなので、たどたどしいスワヒり語で挨拶していくと、むこうの緊張もとれたのか英語とスワヒリのちゃんぽんで、会話が始まった。 こちらも、誠実そうな人柄なのですっかり安心してしまった。 話では、車中でのすり・盗難などが多く気をつけたほうがいいなど、いろいろアドバイスを受けた。 しかし、予定の時間をとっくに過ぎているのに、全然出発する気配がない。 聞くと、やはりいつものことで「これがタンザニアタイムさ」といっていた。 このエリート(ダルエスサラーム大学卒・日本でいう東京大学)たちがいうには、「これだからタンザニアは、何年経っても変わんないんだよ」ということだ。 もともと、ノンビリ屋のわたしは、日本の早いスピード(生活上)よりこれはこれで味が合っていいナーと早くも順応し始めていた。
長い汽笛と共に、ゆっくりゆっくり汽車(ディーゼル)は動き始めた。(やれやれ) この先どうなるのだろうと思うと、期待反面、憂鬱もでかい。 ダレスの町を出ると、いかにもタンザニアという感じの、熱帯のジャングル状態だ。 むかし、たくさんの中国人労働者が鉄道線路の建設のためきたという事だ。 何年ぐらいかかったのだろう、気の遠くなるような距離だ。 地図が手元にある方は見ていただきたい。 かなりの、中国人労働者が、異国の地であるここタンザニアで亡くなったのだろう。 歴史のことを考え感傷にひたるのは、日本ではあまりなかった。 そんなことを考える暇もなかったのだろう。 ここでは、時間が有り余り(周りのタンザニア人もそんな感じに見える)普段気が付かなかったこととか、いろいろなことに思いを巡らせることができていた。 そんなこんなで、最初の中継基地モロゴロに夜中到着する。 荷おろしなどあるという事で時間がかかりそうだ。 軽食(揚げ物・くだもの・駄菓子)売りが、窓の外にかなりの数押し寄せており、同室のエリートたちも腹ごしらえしていたので、バナナ・ビスケットなどを買うことにした。 買物が終わり、ベッドの上で食べ始めると、窓枠になにやら木の板をはめ込みはじめた。 蚊が入りずらくするのか?と聞くと、泥棒避けだという。 現地の人が、用心するぐらいだから、よほどたちが悪いとみえる。 しかし、蒸し暑さは変わらず窓も締め切られたのでよけい熱く感じる。 おまけに蚊もぶんぶん飛んでるし、蚊帳もなく逃げ場がないので、「マラリアが怖くてタンザニアに来るか」と開き直り、ベッドに横になるといつのまにか汽車は走リ出していた。 スワヒリ語漬けの環境に入ってしまったためか、いままで苦痛(聞くことも)と感じていた壁のようなものが、少し低くなったのかあまり意識せずに聞けるようになった。 意味は、ところどころしか解らない(対面して話しているので、ジェッシャーとかでどうにかところどころ解る)状態が続くが、周りがみんな先生みたいなもんだ!!
夜が明け、だいぶ肌寒くなってきた。窓の羽目板の間から、外のこもれびが差し込んでいた。 どの変まできたのだろう。羽目板を外して、外を眺めるとそこはには、乾燥した大地が永遠と続いていた。 昨日のとまった、モロゴロはでは緑も多く見られたのに、いつのまにか風景が一変しているでわないか。 空気は乾燥しており、だいぶ標高も高くなった気がする。 お腹が冷えたのか、トイレへ行きたくなった。 ダレスの空港以来、タンザニアのトイレの汚さには、うんざりしており、神経質な性格もてつだいこのところ便秘気味だった。 また、汚いんだろうな〜と予想しながら、戸をあけると変な悪臭もしない。 おかしいな〜と便器にまたがるとなんと、線路の枕木が丸見えでわないか。 そう、つまり汚物は走りながら、線路に垂れ流しである。 ここでは、国の面積に対し人口の割合が極めて少ないので、このような大地への落し物もすぐに浄化されてしまうのであろう。 しかし、久し振りにおなかの中もすっきりでき、いい気分だ。 寝台へ戻ると、「もうすぐドドマへつくぞ、おまえが世話になるコングワもしばらく前に通過したはずだ」とのこと。 外の殺伐とした景色を見ながら、本当に二年耐えられるのかと日本がまた、恋しくなってしまった。 そうこうし、ドドマに到着した。 ここは、首都になったわけだが、やはり、アクセスが悪いためか依然としてダレスが首都機能をはたしている。 ご多分に漏れず、窓の外は、物売りがわれさきにと窓越しに迫ってきた。 外は、風も強いのかやたら土煙が舞い、なにか、バビル二世(昔やっていたアニメ)のオープニングシーンを思い出してしまった。 しかし、先が長い。やっと半分きたかきないかだ。 同室の、タンザニア人ともさすがに、話のネタがつきてきた。(というより、ボキャブラがつきてきたか) ということで、車内の散策が開始された。
汽車の旅も後半にさしかかって来た。部屋での会話も、飽きてきたので車内をうろつくことにした。 1等寝台にいってみるが、部屋のつくりが少しこざっぱりしている程度であまり二等と変わらない。 ほとんど、戸が閉まっているので中は、確認できなったが。 次に三等へいってみ驚いた。 寝台にはなっていない床面いっぱいに、人と物で溢れかえっていた。 足の踏み場がないので、連結部でしばらく風にあたることにした。 ドドマ以降、外の景色もあまり変化がない、しいていえば、少し外気温が下がってきたことか。 標高もだいぶ高くなってきたせいか。 変化に乏しい、荒涼とした大地ばかり見ていると、山あり谷ありおまけに海ありと、変化にとんだ日本の景色は、なんと趣があるのだろ〜などとつくづく感じてしまう。 傍らにいた熟年の女性に話し掛けてみと、キゴマまでサカナを仕入れに行くという。 タンザニアでは、商売をしている女性がほんとに多い。(個人で商いをしている人) 本当に働き者だ。 なにか、アフリカのママの力強さというかたくましさを垣間見た思いだ。 同室のタンザニア人以外と話ができリフレッシュできた。 二本松で、勉強したスワヒリ語の基礎がやっと生かされてきたようである。 単語に関しては、ローマ字的なよみの発音なので、会話の中で印象に残った単語を後で調べる時あまり苦労しないですむ。 やはり、言葉は使ってはじめ価値が出るのだろうか? 家族のことや仕事のこといろいろきくことができ、十分満たされた気分になってしまった。 どこに行っても、世間話が一番面白い。 途中、小さな駅を通過するが、止まらず徐行のまま通り過ぎた。 物売りも、大変だ。 小走りしながら、車内の客に物を売っている。 汽車の加速がつきだすと、物だけ渡しかんじんのお金を貰い損ねる子供がいたりとハプニングがよくあった。 同室のタンザニア人と夕食(物売りから買った軽食)を交換しながらしばし話した後、ベッドに横になる。 涼しくなったのか、蚊に悩まされることもなくなった。 明日は、いよいよキゴマ到着だ。
やたら寒い朝だった。 薄手の、ジャケットを被って寝ていたが、何度か寒さで目がさめた。 汽車が止まり、外が賑やかになったので終着駅のキゴマに着いたようだ。 駅は、かなり古いのだろう。 ところどころに傷みが目立ち、あまり明るい感じはしない。 同室だった、二人に御礼を言ってわかれた。 とりあえず、地球の歩き方で目星をつけていた宿を探すことにした。 この辺りは、途中通過したドドマ辺りのサバンナとは違い、降水量もかなりあるのか、街中の緑が非常に豊かだ。 標高も、かなりあるのか涼しくて、快適である。 ダレスのあの暑さは、なんだったのか。 別天地のようで、避暑地の軽井沢みたいな感じがする。 しばらく街中を歩き、目の前が開けたかと思うとでました、初めて見にするレイクタンガニーカです。 あまりのでかさに、しばらくぼーぜんとみとれてしまいました。 アフリカ大陸の形成時のしわ(大地溝帯)にたまった、水が作った湖ということであるが、再度アフリカのスケールのでかさに驚かされた。 こういう所に住んでると、タンザニア人のように広い心がもてるのかな〜。 旅の疲れもあり、早めに湖の湖岸にある、ホテルにチェックインすることにした。 日本でいう、旅館みたいなもんであるがテラスの前は、すぐに波打ちぎわとなっており、涼しい風が常に流れている。 湖といっても、規模がでかいので海のように、波が打ち寄せている。 恋人ときたら最高のシチュエーションでしょう。(ん〜もったいない) ということで、ここちよい風にあたってベッドによこになると、いつのまにか夢の中、気がついたら、夕方でした。 明日は、情報収集のため、町の散策だ。
町での、聞き込みも終わりどうにかゴンベまでの、船をチャーターすることができた。 この辺はルワンダ、ブルンディの国境が近いせいか、フランス語を話すタンザニア人が目立つ。 フランスの統治だったこともあるようだ。 ヤマハのエンジンを積んだ、小ぶりの木船に現地の人たちにまじり、ゴンベを目指した。 岸辺では感じなかったが、水の透明度がすこぶる高いのには驚いた。 乗船している人たちは、よく手で水をすくって飲んでいたが、こんなにきれいだったら大丈夫という感じだ。 途中、3mぐらいの蛇が、上手に泳いでいたが、こちらで見る蛇はどれもこれも毒がいかにもあるといった面構えのものが多い。 目的地に着き宿に向かうが、さすがナショナルパークの中である。 ほんとうに、ほったて小屋の中に無造作にベッドが並べてあるといった状態だ。 食事も終わり、することもないので岸辺に行きタンザニア初の海水浴をする。 普通の川や湖は住血吸虫(皮膚を食い破り、静脈系に寄生し血を吸う)という怖い虫がいるので、敬遠していたが、「ここは水がきれいなのでいないよ」と地元の人がいっていたので気兼ねなく飛び込んでしまった。 岸に寄せる波も高く、ほんと海みたいだ。 でたあとも、真水なので気持ちよく行水には最高かもしれない。 夜は、電気もないのでローソクの明かりの中眠りについた。 まさか、こんなとこに来るとは、日本では予想もしていなかった。 日が落ち眠り、日が昇り起きるとは、人間本来の生き方なのか、ここはまさに、そのような体験の場だ。
朝も早くから、野鳥の声で起されてしまった。 岸辺にジャングルが覆い被さったような地形のため、野生動物の声もよく聞こえた。 さっそく、現地のガイドに連れられて森の中に分け入った。 途中、滝などもあり日本の原生林に似ているような感じだ。 けたたましい声に振り向くと、鋭い牙をもったヒヒがこちらを威嚇していた。 動物園と違い、檻がないため多少の恐怖感がある。 まあ、現地ガイドがライフルを持っているのでいざという時は、安心だが。 話を聞くと、野生動物の威嚇射撃より、密猟防止のために持っているそうだ。 なかなか、チンパンジーとでくわせなかったが、山の稜線辺りで、木の上で食事中のものをやっとみることができた。 観光客なれしているのか、余裕の表情だ。 オスのからだは、思っていたよりかなりでかく、力も相当なものだろう。 ゴリラほどではないが、かなりの迫力だ。 以前、イギリスのジェーン博士(チンパンジー研究では有名)という女性が、フィールドワークを長年していたということだが、どのように、彼らと接していたのだろう?(私には無理です) やはり、興味の対象の差でしょうか! ガイドとともに、森の中を回ったが、動物より植物・地形などのほうが面白く感じました。(あとは、人々の暮らしについてとかも好き) ということで、有名なチンパンジーたちには、あまり感動もせず夕方便の、小船でさっさと町に向かった。 またまた、湖の透明度によいしれ、ボーと湖中を眺めていると、ふと吸い込まれる錯覚に教われることたびたび。 とおく、沖にはかなりの大型船も漁をしているのか確認できる。 島国、日本に育った私は、湖が数カ国の国境となっている感じがとても不思議な感覚だ。 しかし、でかいな〜タンガニーカは!!
ゴンベから帰り、キゴマの町でゆっくり一日過ごした。 ここは、標高もあり一年中涼しい季候で、アクセスさえよければかなりのリゾートとして栄えそうである。 しかし、そうなると今の環境も時間の問題で破壊されてしまうのであろう。 地元の人の暮らしが豊かになるのと引き換えかと思うと非常に複雑だ。 町のはずれに、寂れた博物館があるので、立ち寄ってみるとかの有名な探検家のスタンレー関係の資料が、保存の悪い状態で陳列(展示とはいえない)してあった。 未開の、アフリカ内陸部の発信基地として、キゴマに駐留していたらしい。 年代は忘れたが、ここまでくるのだって当時は、大変だったはずなのによくもあのような大冒険ができたかと思うとあまりのスケールのでかさに、ただただ驚くばかりだ。 小心者の私にはとても考えられない。 時間があるとき、スタンレーの探検記でもじっくり読んでみよう。 町のメインストリートもたいしたことはなく、明日の汽車で早々に立ち去ることとした。 しかし、またマラリアの蔓延するダレスに戻るかと思うと湯鬱である。 もう来ることもないと思いながら、打ち寄せる波の音お聞きながらまたもや、一人感傷にふけ眠りに落ちていった。
キゴマから帰り、日常の会話が心なしか楽になっていた。 毎日、スワヒリ語に囲まれ逃げ場のない状態にいたためか、会話力は自然に向上していたようだ。 日本にいて、外国語を机の上で勉強しているのと違い、毎日が実践でありへたをするとご飯にもありつけないという緊張感が努力が苦手な私には、幸いしたのかも。 しかし、今までの日常とは全く違う世界で、多少の不安だけで過ごせるのも、二本松で過ごした三ヶ月の語学訓練の賜物であろう。 何事でもそうであると思うが、つくづく基礎の大切さを痛感した。 ダレスに戻り、日本人がいるドミトリーにもどり、気が抜けた状態でニ・三日過ごしたある日、ついにきました。 大事件です。 ある冒険家が、体験記の中で書いていました。 耐えてアフリカ・女の南米・金のアメリカヨーロッパは、忘れました。 本当にその通りでした。 夜中、突如腹の痛みを感じ、トイレに行ったはいいが、そのまま朝まで、トイレで過ごしました。 あまりの腹の痛さ(はらわたがよじれる)に便座に普通にそわっていられず、ほとんど和式便所状態で、便座の上でふんばっていました。 腹の中の、出るものも出きってもまだ腹の痛みは続きます。 そのうち、水分も出なく血便とでもいうのか、血の混じった粘液状のものに代わりました。 最終的には、それも出なくなりました。 さすがの痛さに、涙は出なかったが、日本に帰ろうと思ってしまった。 朝の、日がさす頃にやっと脱水状態のからだを引きずり、JICAオフィスに電話し、抗生物質を持ってきてもらい、ミネラルウォーターで流し込んだ。 昼前には、腹具合も落ち着いてきてどうにか助かりそうだという、気持ちになった。 原因は結局わからなかったが、前夜のカレーライスには間違いないだろう。 日本の無菌室で育った私には、泥水のような水道水で作る料理は、厳しすぎたか、はたまた、今回の旅で体力的に弱って免疫力も落ちていたのかもしれない。 しかし、ほんとうに耐えた一晩であり、まさに耐えてアフリカを身をもって経験させてもらった。 今考えると、出鼻でアフリカの洗礼を受けたのは、良かったのかもしれない。 その後の任期中においても、これといった体調不良もなく過ごせたのだから。 長いんだか短いんだか、わからないが今までの人生の中で、一番の肉体的な痛みだった。 私にとって、最終的に耐えたのは、この時だけで後は、いたってやさしいアフリカでした。 でも、二度と経験したくないよね、本音のところ!!
あれほど、苦しんだ腹痛も抗生物質を飲んだ翌朝には、ほとんど嘘のように回復していた。 この時ばかりは、薬のありがたさを本当に感じた。 でも、死ぬかもしれないと思ったのは初めての経験だった。(首都なので病院もあるが、二次感染も頻繁にありかえって危ない) いざとなると頼みの綱は、自分のからだだけとなると非常に心細いですね。 そういうわけで、体力も回復しやっと任地へ赴くこととなりました。 ここ首都の、ダレスから500kmぐらい西の内陸にはいったところにある、コングワランチという国営の牧場です。 酪農隊員でもないわたしが、なぜ牧場かというと、場内の設備関係は、ジェネレータで電気を作りまかなっているというでそのための、配線・メンテとうの技術を若い職人に教えるということでした。 牧場の近くを数少ない国道が通っているので、高速バス(海外でさんざ走りこんだものが多い)で向かうことにした。 バスの乗客に、NARCO(ナショナルランチングカンパニー)ナルコは、どこで降りればいいですかと聞くと、首をかしげ知らないよという返事。 タンザニアでは、有名ということなので知らないはずはないと「NARCO」と紙にかいたら、あー「ナーコ」ねと、親切に降りる位置を教えてくれた。 試しに、そのあと何人かに、ナーコはどこにあると聞くと、すぐに理解し教えてくれた。 これは、地元に来ないとわからないな〜。 ダレスから七時間ぐらいか、途中モロゴロで休憩しようやく国道沿いのコングワランチ入り口という看板前で降りることができた。 さびで、あまり字が良く見えないが、どうにか識別できた。 ランチのオフィスまで、砂の道を歩いているとトラクターが通り、「こんど来る日本人か?」とひとのよさそうなタンザニア人が声をかけてきた。 「後ろへ乗りな」ということで、オフィスまで送っていってもらうことになった。 すぐに着くのかと思っていたら、ランチ入り口から、5キロぐらいはなれていた。 荷物は持たない主義だが、さすがに2年暮らすとなると、それなりの量になり歩かずにすんで、助かった。 大きなガレージ(かなりの年代物)の前にしっそなレンガ作りのオフィスはあった。 中に入り、さっそく挨拶をシニアマネジャー・サブマネジャーにすることになった。 こちらでは、ファーストネームで呼び合うので、(偉い人には、Mzee何々とムゼーを名前の前につける)HIDEYUKI(英行)と申します。 というと、長くていいづらいから短くできないかと言う。 そこで、じゃー「HIDEとYUKIどっちがいいやすいですか?」というとYUKIと変な顔をして言い返してきた。 はい、ヒデとユキです。するとまたもや、ユキ・・・えーと言う。 おかしいなと思いよく聞いてみると、ユキではなくニュキと言っている。 相手には、ユキ(YUKI)ではなくニュキ(NYUKI・虫のハチ)と聞こえたらしい。 どおりで変な顔をしたんだな。 この件があってから、自己紹介するときは、私の名前は、ユキです。 NYUKI(ハチ)じゃなくて、YUKI(ユキ)ですよ!というのが、定番になった。 これをいうと、一発で覚えてもらえ尚且つ笑いも取れ、受けること間違いなしであった。 ちなみに、この癖は直らず、今でも職場で言うので、同僚の顔が良くこわばっている。 ということで、タンザニアでの2年間の間、かなりくだらないギャグを飛ばしてきたが、心やさしいタンザニア人は、同情か本心かわからないが、楽しそうに笑っていた。 でも、いっしょに馬鹿笑いすると非常に幸せな気分になれました。 今は、職場で自分だけで受けていることが多いのですが、笑いは大切ですよね!
オフィスに挨拶も済み、2年間暮らす家へと向かう。 日本の感覚で、どうせ事務所の近くだろうとたかをくくっていたが、歩いても歩いてもなかなか着かない。バオバブの並木を通り過ぎやっとたどり着いた我が家は、事務所から直線で1.5キロくらいか。電気の配線がある末端の家だった。 左隣の家まで200mぐらい離れ、右隣は、電気もない土の家(こっちも2・300m離れている)だ。 ちょうど行ったのが、乾季だったので、遠くからの眺めは、まさに昔NHKでやっていた、大草原の何とかとそっくりだった。 家は、煉瓦造りのもので、ドイツの統治時代に建てられたものということだが、乾燥している季候のせいかいたみも少なく、いい感じだ。 地震もあまりないところなので、大丈夫だろう。その当時は、ヨーロッパ向けのピーナッツ栽培が盛んだったそうで今は使われていない、給湯関係のシステム(配管等)が、そのまま放置されていた。 平屋だが、部屋数もあり、一人で生活するにはでかすぎるぐらいだ。 掃除が大変。 庭も牛の進入を防ぐ柵の中だけでも、500坪ぐらいだろうか。 その他、畑やるんだったら周りの土地を好きなだけ使ってもいいぞとのこと。 日本で、隣りとの境界線がどうのこうのという話は、ここでは存在しませんね。 心もでかいが、大地のスケールもまたけた違いだ。
大任地コングワにきて数日が過ぎた、身の回りの整理(自分のオフィスも含め)も終わり毎日7時半にオフィスに行き三時過ぎに帰宅という日課を繰り返していた。 朝は早いも早いが、帰りも早いというのは、ランチ独自の時間設定かもしれない。 牛の搾乳も含めワーカーの朝は早いのだから。 朝の新鮮な空気の中、牛独特の臭いが混ざり合いなんともいいがたかったがだいぶなれてきた。 しかし、日本のように人工の音がないのも、とても心地よいことがわかった。 朝は、鳥の声と、とうくで聞こえる牛の声・夜といったらまさに満天の星空だ。 よるの7時から9時までの2時間のみジェネレーターを回し配電するがその後は、まさに闇の中に包まれる。 周りに明かりがないためか、空を見上げると星の数に驚く。また、流れ星の多さにもたまげた。 最初は、便利な都会の隊員がうらやましかったが、よく考えると都会では、日本と変わらないので、僻地ではあるがここに来れたことに、凄く感謝している。 仕事も、初めなのでマイペースでこなし、アフタースリーは、おもに村の散策につかっていた。 ふらふら、村の中を歩いていると必ず声がかかりお茶と世間話が始まる。 ポケット辞書も持ちあるいていたが、面倒なので携行しなくなった。ゼッシャーとかで、理解しやすいように説明してくれる人が多いのでその必要がなくなった。 時間のゆとり(暇なだけか?)がある人がほとんどなので、こちらもすっかりコングワランチTIMEになじんでしまった。 もともと、スローペースな性格かもしれないが!?村内も、ほとんどあいさつ回りが済んだ頃、ドドマの隊員より朗報がはいりました。 バイクを貸与するので、ドドマまで取りにこいとのことです。 100kmぐらい離れたまちドドマまで、ランチの車に乗せてもらい、いざ愛車とのご対面です。 ブルーのボディーのオフロード仕様・50ccのそのバイクは、スズキts50ハスラーでした。 20代中盤までオートバイキチガイだったわたしは、このような可愛い(排気量の小さい)バイクには乗ったことがなくほんと大丈夫なのかと少し物足りなさを感じていました。 が、しかし小さな巨人でした。 その後の任期中、故障もなく私をありとあらゆるタンザニアのフィールドに導いてくれました。 その後、あれだけ好きだったバイクには、乗っていませんが、この時の印象が良かったためか、車はスズキ車を使っています。 ちなみに!!
ハスラー50がきてから、アフター5ならぬアフター3がかなり充実してきた。 毎日のようにまさに水を得た魚のように、ランチ内外を走り回っていた。 ほとんどの道は、未舗装のままで昔パリダカに憧れていた私には、無常の喜びとかしていた。 とろとろ走ると、スタックしてしまう細かいサンドもあれば、ごつい岩がむき出しているところありとつねに、ワイドフルオープンでアクセルを開いていた。 ランチ内では、野菜などが調達できないので、よく50キロ離れたコングワ村までは、週に何回も通っていた。 ソコ(市場)での、ママたちとやりとりも面白いが、この村は、商用電源がきているので、冷たいコカ(コカコーラ)が飲め唯一の楽しみとかしてきていた。 アルコールが苦手な私は、ラフロードをカットンデここで、こうして町の中の人の流れを見ている時間がとても好きになっていた。 村人は、都会の人と違いシャイな人ばかりで、声をかけてくることもなく、そんなのも案外心地よかったりしていた。 たまに行く、ダレスの物売りのひつこさにはかなりうんざりしてもいたので。 言葉に関しても、わからないことは、聞くのが早く楽なので、辞書とは縁が切れていた。 しかし、しばらく後になるが、新聞の読解を始めた頃には、再度開くようになったが。 よく、夢の中でも外国語が出るようになればなになにだというが、24時間スワヒリ語のなかにいると、夢の中の会話もやはりスワヒリ語に変わってきた。 初めのころは、頭にきた時や感情の高ぶりを言葉として表現できずかなり悔しい思いをしたが、現地で暮らし始め一年を過ぎたころからか、ストレスなくでてくるようになった。 しかし、日本で、意識的に英語を勉強しているのに比べ、今思うとほんとに楽な(語学習得にとって)環境だった。 が、言葉は、使ってナンボ全く使わない(使えない)今は、宝の持ち腐れですかね!?
二本松訓練所時代、スワヒリ語の作文のテーマとして、サソリを取り上げたことがあった。 タンザニアにきて、やっとその因縁のサソリ君と対面することができた。 家の周りは、赤土の大地なので、いつ見ても不思議ではない環境だったが、なかなかお目にかかることができなかった。 8月の乾季も過ぎ12月も近づくと、雲が多くなり、スコールが日に何度も続くことが多くなった。 気温も高くなり、一面の不毛の赤土の大地が、一瞬にして花畑と化していく光景は、自然のパワーを否応なしに感じさせられる。 そのような中、水溜りを避けながら散歩しているある日、ノソノソと真っ黒なでかいサソリが、尻尾をたて悠悠と歩いていた。 急いで、家に帰り一眼片手に、かけ戻り何枚も、シャッターを斬っていた。 いかにも毒々しい、その風貌だが、ガキどもの話では、小さい種類のものが毒が強いといっていた。 この対面から、一週間もたたないうちこの小さいサソリとも対面できた。 近所のガキが、家のベランダで、ごろごろしている時屋根から一センチに満たない小さなサソリが落ちてきたのだ。 生意気に、小さいにもかかわらず、目を凝らしよく見るとしっかりと尻尾をたて、威嚇のポーズをとっているではないか。 以前、ガキどもの言うことを聞かず、痛い目にあっている(ある時、近所の子供が、ありを棒で突っついてあそんでおり、これに噛まれると凄い痛いんだというので、そんなことはないと指で持ったとたんあまりの痛さに顔がゆがんでしった。 ものすごい、顎の力があり、日本のアリとは比べ物にならなかった。)このことがあってから、ガキどもの忠告は素直に従うようになったのだが。 一度見てからは、家の周りやらあらゆるところで見ることができた。 ただ、家の中は、はだしで歩くようにしていたので、サソリの侵入には、十分注意し隙間という隙間にスポンジを当てていた。 刺されなくて良かった。
タンザニアにきて、昔の日本は知らないが、こんな感じだったのかと想像している。 子供ははだしで飛び回り、テレビも冷蔵庫もない世界、まるで時間が止まった感じだ。 しかし、なぜかからだは、妙に楽である。 日本にいると、余計なことをすることが、あまりに多かったのか? 本当に必要なこと以外で、頭や体を使う機会が多すぎたのだろう。 ここは、単純だ。 物がないのだから、いたってシンプルな生活が送れる。 電気は、夜の2時間(19:00〜21:00)だけの発電機の供給だから黙っていても、消灯の時間がやってくる。 人間のからだは、本来うまくできているのだろう。 夜更かししなければ、目覚ましなしでもだいたい決まった時間に起きられるものだ。 淡々と過ごす、シンプルライフもいいが2年の任期が終わる頃には、やはり飽きがきてしまった。 長年染み付いた日本の生活のためか、せこせこ何かしないといられない貧乏性からは、脱出できなかった。 有り余る時間、ボーと大自然・満天の星空を眺めることは、今では夢のまた夢である。 長いんだか、短いのだかわからない人生の一こまでこのような時間を過ごせたのはラッキーだったかもしれない。 今思うと!